エルヴィスの復帰:1960年 – 1965年
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「トム・パーカー (マネージャー)」の記事における「エルヴィスの復帰:1960年 – 1965年」の解説
プレスリーが除隊となって帰国した1960年3月、パーカーはワシントンD.C.からメンフィスまでの列車を手配し、途中の駅に停車するごとに、ファンたちが彼らのアイドルに直接会えるようにした。もし、パーカーが、エルヴィスの復帰に一抹の不安を抱いていたとしても、エルヴィスの帰路に起こった出来事を知れば、すぐに消し飛んだことだろう。 フランク・シナトラは、プレスリーとロックンロールを、50年代の汚点だと言い放っていたが、この頃には、何とかプレスリーを自分の番組に出演させたいと考えるようになっていた。かつての厳しい非難を忘れるような人物ではなかったパーカーは、出演料は、2曲歌い、のべ8分間の出演で125,000ドルだと公言した。この金額は、番組全体への出演に対してシナトラ自身が得ていた総額よりも大きかった。シナトラはこの条件に合意し、1957年1月の『エド・サリヴァン・ショー』以来、久々の全国放送テレビ番組への出演となったシナトラの特別番組は『en:The Frank Sinatra Timex Show: Welcome Home ElvisWelcome Home Elvis(お帰りなさいエルヴィス)』と題された。 シナトラの特別番組の後、パーカーは、プレスリーの将来をハリウッドに託すことにした。パーカーは、プレスリーを、10年間にわたって毎年3本の映画とサウンドトラックを生み出す娯楽機械に仕立て上げようと構想した。1960年、パーカーはプレスリーに3回のライブ・ショーをさせたが、これはいずれもチャリティ行事であり、そのうち2件はメンフィスで、1件はハワイで行なわれた。その後は、1968年まで、プレスリーは一度もライブ公演を行なわず、ファンとの直接の接触はほとんどなくなった。パーカーは映画会社と長期契約を結んだが、これは自分とプレスリーに仕事と収入が保証されることを狙ったものであったかもしれない。しかしこれは、一方では、パーカーにとっては失敗でもあった。もしパーカーが、映画1本ごとに、その直前の映画の興行成績に基づいて、その都度契約を結んでいれば、得られた報酬はもっと多くなっていたことだろう。1960年代を通して、パーカーはプレスリーの映画契約に関する交渉を続けたが、脚本の内容や、制作者側の思惑は、ほとんど意に介さなかった。パーカーの持ち出す条件には、映画会社側にとっては無理難題も多く、映画プロデューサーのハル・B・ウォリスは、「悪魔との契約は止めてしまおうかとも考えた (I'd rather try and close a deal with the Devil)」とこぼしたと伝えられている。 プレスリーは、年にアルバム3枚だけをRCAに提供すればよい立場だったが、映画のサウンドトラックによってこの義務は果たされた。プレスリーはツアーもせず、公の場に姿を現すこともなく、パーカーは経費を最小限に維持することができた。最初の数年間は、プレスリーの映画はそこそこの成功を収め、アルバムもチャートの首位まで上昇し、どんなシングル盤もほとんどがヒットした。しかし、時の流れとともに、また世界的現象としてのビートルマニアが始まると、ビートルズが音楽チャートを支配するようになるにつれて、プレスリーの人気は徐々に沈んでいった。それでも、プレスリーの映画は利益を生んでいたし、アルバムの売れ行きも好調だったが、収益は減少していった。このためパーカーは、映画の制作経費を引き下げようと、スケジュール管理を厳格にしつつ、揉め事を極力避けるようになった。
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