エルヴィスとの契約:1956年 – 1957年
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「トム・パーカー (マネージャー)」の記事における「エルヴィスとの契約:1956年 – 1957年」の解説
1956年3月26日、エルヴィスとニールのマネジメント契約が失効した後、エルヴィスはトム・パーカー大佐に独占代理権を委ねる契約をした。その後、ハンク・スノウが、エルヴィスとの契約の内容についてパーカーに尋ねたところ、パーカーはスノウに「君はエルヴィスとは何の契約もしていない。エルヴィスは大佐と独占契約を結んだ。」と答えた。 RCAビクターからの最初のシングル盤となった1956年の「ハートブレイク・ホテル」で、プレスリーは、ただの話題性だけではなく、本物のレコーディング・スターになった。1956年以降、パーカーは、彼の新しいスターを全国的に売り出すべく動き始めた。彼はプレスリーのために、『The Milton Berle Show』や『エド・サリヴァン・ショー』といった人気テレビ番組への出演を取り付け、テレビ出演者として最高級の金額にあたる出演料を確保した。この年の夏までに、プレスリーは、最も名の売れた新人のひとりとなり、新たな十代の聴衆には大々的な興奮を巻き起こし、一部の年長の聴衆や宗教団体には、大々的な怒りを巻き起こした。 パーカーは、ビバリーヒルズの映画関連商品販売業者であったハンク・サパーステイン (Hank Saperstein) と、プレスリーをブランド名とすることで4万ドル近い商品化権の契約を結んだ。 チャームブレスレットからレコード・プレーヤーまで、78種類の商品で展開されたプレスリー関連商品は、1956年末までに2200万ドルを売り上げた。パーカーはその利益の25パーセントを手中にし、彼以前のマネージャーたちが夢見ることさえできなかったような、アーティストから金を生む様々な新しい手法を編み出した。パーカーは、「私はエルヴィスが大嫌い (I Hate Elvis)」ト書かれたバッジを、そういうもの以外では金を出してくれそうもない(エルヴィス嫌いの)人々にも売ろうというアイデアさえ思いついた。 4月、パーカーは、エルヴィスの売り込みに関して最初の間違いを犯してしまった。パーカーは、エルヴィスに4週間のラスベガスでの仕事を入れたが、これはラスベガスに集まる、少し年齢層が高い、よりおとなしい聴衆の反応を読み誤った結果であった。アメリカの若者の間で、ヒットの最中にあったプレスリーだったが、ラスベガスの中年の聴衆には、何かしら奇妙な存在としか映らなかった。プレスリーを、ピーナッツを欲しがる猿のように叫び声をあげながら腰を振る姿から、道化のような人物と見た者もいれば、そのパフォーマンスが粗野で、深夜の紳士向けクラブにふさわしい類のものだと思った者もいた[要出典]。数回のショーで、極めて冷ややかな反応を受けた後、パーカーはプレスリーの出演を2週間で打ち切ることにした。後にプレスリーは、このときの出来事を、自分のキャリアで最悪の事態のひとつだった、としばしば語った。 こうした躓きはあったものの、プレスリーの人気は、いよいよ勢いを増した。プレスリーは最初にパーカーと会った時から、映画への出演に意欲を示していたが、パーカーはいよいよその実現に動いた。パーカーはプレスリーのためにパラマウント映画のスクリーン・テストの機会を設け、そこでプレスリーは演技力を印象づけ、7本の映画への出演を契約した。パーカーはこの契約に、少なくとも年に1本は他の映画スタジオで映画を撮る自由をプレスリーに認める、という条件を盛り込み、さらにパラマウントの中に、スタッフが常駐する事務所を構えることに成功した。プレスリーの映画出演は、当初は真剣に俳優としての可能性を追究しようとするものだったが 、シングル盤やアルバムを映画とともに一緒に宣伝する可能性が見えてくると、パーカーは映画作品の中で歌うよう、プレスリーを説得した。この目論見は、大儲けに繋がり、特に初主演映画『The Reno Brothers』(後に曲名と同じ『Love Me Tender』に改題)からのシングル「ラヴ・ミー・テンダー」は、予約だけで100万枚以上が売れた。1956年末までに、パーカーはプレスリーを、世界中で最も有名で、最も高い出演料が支払われるエンターテイナーに仕立て上げた。 1957年、パーカーは、プレスリーの生い立ちや活躍を下敷きにしたNBCのドラマ『The Singing Idol』の出演者のオーディションに、トミー・サンズを送り込み、遂にサンズを大きく売り出すことに成功した。当初、NBCは、プレスリーにこの役を演じて欲しいと望んだが、パーカーはこれを拒んでいた。ドラマの中では、パーカーにあたるマネージャー役は、「ひねくれた精神病質者 (twisted psychopath)」として描かれた。批評家たちは、このドラマや主演したサンズを非常に高く評価し、これによってサンズは、1週間も経たないうちにキャピトル・レコードとの契約に漕ぎ着けた。程なくして、サンズの歌う「Teenage Crush」がポップ・チャートの3位まで上昇し、最終的には80万枚を売るヒットとなった。
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