エルヴィスとの出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 08:53 UTC 版)
「トム・パーカー (マネージャー)」の記事における「エルヴィスとの出会い」の解説
1955年はじめ、パーカーはエルヴィス・プレスリーという名の若い歌手の存在に気づいた。プレスリーは流行のスタイルとは異なる歌い方をしており、パーカーは即座にその音楽スタイルの将来性に関心をもった。エルヴィスの最初のマネージャーだったのは、ギタリストのスコティ・ムーアだったが、これはサン・レコードのオーナーであるサム・フィリップスからエルヴィスをあくどい音楽プロモーターたちから守るためにマネージャーになるよう言われてのことだった。当初、エルヴィスは、ムーアと、ベーシストのビル・ブラック (Bill Black) とともに、ブルー・ムーン・ボーイズ (The Blue Moon Boys) という3人組のメンバーであった。しかし、エルヴィスがフィリップスと契約を交わした際に、ムーアとブラックは契約の対象とされなかった。フィリップスは2人に対して、(自分とではなく)エルヴィスとの間で別個の契約を結ぶよう告げた。ムーアによれば、収入の半分をエルヴィスが、残り半分をムーアとブラックが分けるということで、合意が成立した。ムーアがエルヴィスと結んだ1年だけのマネジメント契約は、マネジメント手数料として収入の10%をムーアに支払うというものであったが、ムーアは、実際にはこれを受け取らなかったと述べている。エルヴィスたちが最初の録音セッションを行なった8日後にあたる、1954年7月12日付の契約書には、エルヴィスと両親が署名をしている。この契約が満了したとき、メンフィスのラジオ局のパーソナリティだったボブ・ニール (Bob Neal) が割り込み、フィリップスと契約してエルヴィスのマネージャーとなった。この時点で、ムーアとブラックは、フィリップスともエルヴィスとも、何らかの契約関係が無くなってしまった。ニールは、当時、新たな顧客であるエルヴィスの売り込みに苦戦していたが、エルヴィスは1955年2月にパーカーと会って、パーカーにその後の仕事のブッキングやプロモーション活動について、パーカーに一定の権限を与えることに合意した。 パーカーとニールは、プレスリーを売り込むために、自分たちが運営していた「ハンク・スノウ・ツアー」にエルヴィスを加えて、ツアーに出した。ニールは依然としてプレスリーの正式なマネージャーであったが、プレスリーのキャリアへの関与を益々拡大していったパーカーは、1955年夏にはプレスリーの「特別顧問」になった。この時点で、プレスリー自身はまだ未成年であったため、契約には本人とともに両親が署名する必要があった。パーカーの役割の中には、より大きなレコード会社との契約を獲得することも含まれていた。プレスリーは、キャリアの最初からサン・レコードに所属していたが、レーベルのオーナーであったサム・フィリップスは、プレスリーの成功のためには、もっと大きなレコード会社の支援が必要だと感じ取っていた。しかし、フィリップスは、簡単にはプレスリーを手放さず、パーカーに対して、プレスリーとの契約を解除するには、当時としてはまったく破格の4万ドルを要求すると伝えた。 パーカーは、すぐにプレスリーのために新しいレーベルを見つけることに取りかかった。マーキュリー・レコードやコロムビア・レコードも関心を示したが、彼らの提示した条件は、4万ドルには遠く及ばなかった。ハンク・スノウが所属していたレーベルであるRCAビクターも関心を示したが、やはり既存の契約解除にかかるコストを考えて、話は進まなかった。しかし、RCAビクターのプロデューサーであったスティーヴ・ショールズは、しかるべきレーベルから売り出せば、プレスリーの音楽のスタイルは巨大なヒットにつながるはずだと確信し、パーカーとの交渉を始めた。RCAは、事実上無名の歌手のために2万5千ドルを出すことはできないと明言したが、パーカーは、プレスリーはただの無名歌手ではないと説得した。同じころ、プレスリーの売り込みが、契約解除コストのために失敗する可能性があると考えたパーカーは、代わりに再度トミー・サンズをRCAに売り込もうとした。パーカーはショールズに、サンズならプレスリーのようなスタイルでレコードを作れるだろうと売り込んだが、ショールズは、以前のサンズとの経験から、プレスリーの代わりにはならないとして、サンズの話は却下された。 11月、パーカーとスノウは、サン・レコードからプレスリーを4万ドルで買い取るようRCAを説得し、11月21日、プレスリーの契約は、正式にサン・レコードからRCAビクターへ譲渡された。この契約の署名に立ち会ったスノウは、彼がパーカーと共有していたジャンボリー・アトラクションズ社とマネジメント契約を結んだものと考えていた。しかし、これは誤解であり、実際にはエルヴィスとボブ・ニールとの契約がまだ有効であった。11月21日に署名されたのは、レコード・レーベルの移動に関する内容だけであった。経済的にもっと大きな意味を持った取引は、1956年3月にニールとプレスリーとのマネジメント契約が切れた時点で、その更新を求めないことにニールが同意したことであり、これによってパーカーは自らがマネージャーとして名乗りを上げる機会を得たのであった。
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