エルヴァンゲン修道参事会諸侯領
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「エルヴァンゲン (ヤクスト)」の記事における「エルヴァンゲン修道参事会諸侯領」の解説
およそ200年におよぶ持続的衰退期の後、貴族出身の修道士によって宗教改革を免れた修道院は、1460年に免属の世俗の修道参事会に変質した。修道参事会長はシュロス・オプ・エルヴァンゲン(エルヴァンゲン高台の城館)に住み、教会においては司教の権利を有していた。彼は修道参事会諸侯領を防衛するための軍隊を保持しており、平時にも40人の兵がいた。その当初の支配域は、アムト・エルヴァンゲン、アムト・タンネンブルク、アムト・コッヘンブルクを含んだ。1471年にアムト・レトレン、1545年にヴァッサーアルフィンゲン、1609年にホイヒリンゲンがこれに加わった。1800年頃、この修道参事会諸侯領はフランケン騎士クライスのオーデンヴァルト騎士カントンに登録されている。 エルヴァンゲンでは、説教師のヨハン・クレスが1524年から宗教改革の思想を広めていった。エルヴァンゲン司祭ゲオルク・ムンパハはこの年に宗教改革を要求する14か条を教区教会に打ち付けた。アウクスブルク司教が彼を破門にしたが、市は彼を支援した。聖堂参事会員たちは殺害の脅迫を受け、その多くがこの街を去った。ムンパハは1525年に農奴制の廃止、修道院の改革と破壊を宣言した。彼の提案にエルヴァンゲンの農民たちが集まり、市と城館への突入を強行した。市民は、1525年4月26日に12か条の要求を受け容れざるを得なかった。約2000人の農民たちは続いて周辺部へ移動しメンヒスロート修道院を略奪し、ディンケルスビュール市をも屈服させた。エルヴァンゲンでも略奪や破壊が行われ、市民たちはついに農民たちを市から追い払った。1525年5月17日にエルヴァンゲンの群集はシュヴァーベン同盟軍によって最終的に征服された。ムンパハとクレスは逮捕され、有罪判決を受けて、1525年11月7日にラウインゲン(ドイツ語版、英語版)で斬首された。 遅くとも14世紀には、ヴュルテンベルク家はエルヴァンゲン内にフォークト代理を置いていた。クリストフ公は辺境伯アルブレヒト・アルキビアデスによるエルヴァンゲン放火の脅迫を切り抜けた。ドイツ騎士団総長ヴォルフガング・シュッツバール(ドイツ語版、英語版)は修道参事会諸侯領のアムトを要求し、1553年にエルヴァンゲンを占領した時も、クリストフ公はこれに対抗する準備を行ったが戦闘を行わずに明け渡しを得ることに成功した。 1588年と1611年から1618年までの間に約 450人の男女がエルヴァンゲンの魔女狩りで殺害された。エルヴァンゲンはバンベルク司教領(ドイツ語版、英語版)と並んで最も集中的に魔女狩りが行われた街である。2001年にカトリックの聖フィトゥス教会は、魔女狩りの犠牲者を追悼して、当時の刑場脇の櫓の壁を象った記念碑を建立した。この記念碑は芸術家で司祭のジーガー・ケーダーが制作した。 三十年戦争では、1626年から1635年までの間に疫病がこの街に多くの死者をもたらした。エルヴァンゲンはカトリック連盟に参加し、多大な金銭的貢献を行った。1632年5月22日にこの街はスウェーデン軍に占領された。グスタフ・アドルフ王はエルヴァンゲンに自らの代行者としてホーエンローエ=ノイエンシュタイン伯を派遣した。彼は1633年夏に多くの神父、司祭、修道参事会員を追放し、カトリックの礼拝を禁止して改革派の礼拝を行わせようと試みた。1634年9月9日、ネルトリンゲンの戦いの3日後にホーエンローエ=ノイエンシュタイン伯はエルヴァンゲンを明け渡した。 修道参事会諸侯領の時代、市長は修道参事会から指名され、給料を得ていた。市参事会員は市議会が推薦し、修道参事会が指名した。
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