ウィルズ橋 (1856年-1871年)
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「外白渡橋」の記事における「ウィルズ橋 (1856年-1871年)」の解説
1856年10月にジャーディン・マセソンのイギリス人実業家チャールズ・ウィルズと、ラッセル&コーの「才気ありエネルギッシュ」なアメリカ人社長でありアメリカ副領事(1853年)・スウェーデンとノルウェーの領事も務めていたエドワード・R・カニンガム(1823年–1889年)は、20人の投資家による合弁企業 Soochow Creek Bridge Company(苏州河桥梁公司、中国で初めて橋の建設を本業とした会社)から出資を受け、呉淞江の南側のイギリス租界と北側のアメリカ租界の行き来を容易にするため、最も河口側の渡し船のルートに、呉淞江を渡る初めての外国製の橋を建設した。これは1855年に壊れて「中国人には建て直すことができない」中国製の橋を置き換えるものであり、この橋はやがて「ウィルズ橋」と呼ばれるようになった。この橋は全て木製であり、全長137.16メートル、幅7.01メートルだった。呉淞江を大型の船が出入りできるよう、北側は跳ね橋構造になっていた。フランシス・ポットによると、それは「あまり見栄えのよい構造ではなかった」。 ウィルズは中国に資本を持ち込んでインフラに投資し、それは中国人と外国人の両方に益をもたらした。この橋に彼は12,000ドルを投資し、当然に通行料を課した。アーンリョウによると「投資は、全ての乗り物と歩行者が払う通行料で回収されることになっており、馬車は年5両、歩行者は年1両だった」。橋は、その少額な通行料を支払える者なら誰でも利用できたが「住民には評判が悪かった」。中国人も外国人もこの通行料を払ったが、外国人は上海で財やサービスを買う時そうするのと同様、ツケ払いにしていた。これが多くの中国人の目には、外国人だけ無料で橋を渡っているように映った。1863年にイギリスとアメリカの租界が合併した際、通行料は倍に値上げされ、中国人住民から強い反発が起こった。ウィルズ橋の通行料システムは、列強が中国人に課している多くの差別の一つだと地元民はみなした。彼らは抗議活動を行ない、橋の利用をボイコットして、広東の商人たちが呉淞江を渡る新しい渡し船を開業した。広東出身の Zhan Re は現在の陝西路にあたるところに新しい渡し船を開業した。1872年に『申報』の編集者に寄せられた投稿には、ウィルズ橋を渡るのに中国人は通行料を取られるのに外国人が免除されていることへの怒りが綴られている。橋のオーナーは確かに「利に目敏い」という投稿もあった。Barbara Mittler によると「これは誤解であることがわかった。実際は、共同租界工部局が外国人の利用者分の年間利用料を払っていたのである」。ポットによると、「会社は橋の利用者から集めた利用料で莫大な利益を上げ、地方長官(道台)から25年間の独占権の免許を得たと主張した。しかし市民は抗議し、道台のそのような免許は何であれ認められないと拒否した」。ウィルズはやがて富豪になったが、P&Oの蒸気船ベンガル号の船上で1857年9月9日に死去した。 1870年にもなると、ウィルズ橋はかなり傷んだ状態になっていた。共同租界工部局は会社に修繕を促がしたが、それは無視され、「最終的に共同租界工部局が介入し、ウィルズ橋のすぐ隣に別の橋を建て、誰でも無料で渡れるようにした」。
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