ウィルズ橋とは? わかりやすく解説

ウィルズ橋 (1856年-1871年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 02:37 UTC 版)

外白渡橋」の記事における「ウィルズ橋 (1856年-1871年)」の解説

1856年10月ジャーディン・マセソンイギリス人実業家チャールズ・ウィルズと、ラッセル&コーの「才気ありエネルギッシュ」なアメリカ人社長でありアメリカ副領事1853年)・スウェーデンノルウェー領事務めていたエドワード・R・カニンガム1823年1889年)は、20人の投資家による合弁企業 Soochow Creek Bridge Company(苏州河桥公司中国初め橋の建設本業とした会社)から出資を受け、呉淞江南側イギリス租界北側アメリカ租界行き来容易にするため、最も河口側の渡し船ルートに、呉淞江を渡る初めての外国製建設した。これは1855年壊れて中国人には建て直すことができない中国製置き換えるものであり、このはやがて「ウィルズ橋」と呼ばれるようになった。この全て木製であり、全長137.16メートル、幅7.01メートルだった。呉淞江大型の船が出入りできるよう、北側跳ね橋構造になっていた。フランシス・ポットによると、それは「あまり見栄えのよい構造ではなかった」。 ウィルズは中国資本持ち込んでインフラ投資し、それは中国人外国人両方に益をもたらした。このに彼は12,000ドル投資し当然に通行料課した。アーンリョウによると「投資は、全ての乗り物歩行者が払う通行料回収されることになっており、馬車は年5両、歩行者は年1両だった」。は、その少額通行料支払える者なら誰でも利用できたが「住民には評判悪かった」。中国人外国人もこの通行料払ったが、外国人上海で財やサービスを買う時そうするのと同様、ツケ払いにしていた。これが多く中国人の目には、外国人だけ無料渡っているように映った1863年イギリスアメリカ租界合併した際、通行料は倍に値上げされ中国人住民から強い反発起こった。ウィルズ橋の通行料システムは、列強中国人課している多く差別一つだと地元民みなした。彼らは抗議活動行ない利用ボイコットして、広東商人たち呉淞江を渡る新し渡し船開業した広東出身Zhan Re現在の陝西路にあたるところに新し渡し船開業した1872年に『申報』の編集者寄せられ投稿には、ウィルズ橋を渡るのに中国人通行料取られるのに外国人免除されていることへの怒り綴られている。オーナー確かに「利に目敏い」という投稿もあった。Barbara Mittler によると「これは誤解であることがわかった実際は、共同租界工部局外国人利用者分の年間利用料払っていたのである」。ポットによると、「会社利用者から集めた利用料莫大な利益上げ地方長官(道台)から25年間の独占免許得た主張した。しかし市民抗議し、道台のそのような免許何であれ認められない拒否した」。ウィルズはやがて富豪になったが、P&O蒸気船ベンガル号の船上1857年9月9日死去した1870年にもなると、ウィルズ橋はかなり傷んだ状態になっていた。共同租界工部局会社修繕を促がしたが、それは無視され、「最終的に共同租界工部局介入し、ウィルズ橋のすぐ隣に別のを建て、誰でも無料渡れるようにした」。

※この「ウィルズ橋 (1856年-1871年)」の解説は、「外白渡橋」の解説の一部です。
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