イブン・アラビーとその学派への批判
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「イブン・アラビー」の記事における「イブン・アラビーとその学派への批判」の解説
彼の教説は各地に熱狂的な支持者を生み出す一方、反対派も多く、カイロでは暗殺計画があったと言われている。 イブン・アラビーの完全人間論では、修行の途中において、人間は神アッラーフの名・属性(アッラーフの99の美名)はもとより、本質までも体験出来るとしている。唯一なる神アッラーフは人間とは絶対的に隔絶された高みにあるとする主張はスーフィズムの勃興期から存在し、イブン・アラビーの存在顕現論そのものは認めつつも、アッラーフの至高性を保つためには「本質まで体験し得る」という部分に反発する論者も多かった。その代表的な人物のひとりにイブン・タイミーヤがおり、15世紀のビカーイー(Burhān al-Dīn al-Biqāʿī 1406年頃 - 1480年)や同じくスユーティー(Jalāl al-Dīn al-Suyuṭī 1445年 –1505年)といった有名な学識者達がイブン・アラビー批判を展開したのも、主にイブン・アラビーの「存在一性論」や「完全人間説」で説かれている「造物主であるアッラーフと被造物を区別しない」立場についてであった。 イブン・タイミーヤなどを含む多くの有名なウラマーがイブン・アラビーはムスリムではないと断じている。彼が著作中に示した思想にはイスラム教の枠を超えるものがあり、例えば彼は古代エジプトのファラオが自身を神だとみなしていたことを正しいことだと主張している。これは「我こそは真理なり(anā al-Ḥaqq)」という有名なスーフィー的「酔言」(shaṭḥ シャトフ)を述べた逸話でも有名な9-10世紀のスーフィー修行者ハッラージュ(Abū ʿAbd Allāh al-Ḥusayn al-Ḥallāj 858年頃 - 922年)が、悪魔イブリースが地獄の劫火に焼かれ、ファラオもモーセの出エジプトにおいて海でも溺れさせられても翻意しなかった事をあげ、イブリースやファラオの行動にこそ真の信仰とみて両者を称えた逸話にちなんでいる。 スーフィズムの思潮は、スーフィーの修行によって感得した境地を「我こそは真理なり」や「アッラーフに讃えあれ」と呼ぶべきところを「我に讃えあれ」といった「酔言」によって表現したり、数々の「奇行」を残した上記のハッラージュやアブー・ヤズィード・バスターミー(Abū Yazīd (Bāyazīd) Ṭayfūr al-Basṭāmī 804年頃? - 874年・877年)に代表される「酔ったスーフィー」と、スーフィーの修行を積みつつムスリムとしての道徳や規範を遵守すべきとするジュナイド(Abū Qāsim b. Muḥammad b. al-Junayd al-Baghdādī 830年頃? - 910年)に代表される「醒めたスーフィー」におおよそ大別される。イブン・タイミーヤはジュナイドの系列の「醒めたスーフィー」こそ真に実践すべきスーフィズムであり、否定すべき不信仰者の代表である悪魔イブリースやファラオと敬虔なムスリムとの区別すら否定する、ハッラージュやその伝統に属するイブン・アラビーとその論者たちを厳しく批判した。ジュナイドはバスターミーの後輩にあたり、ハッラージュはジュナイドの弟子のひとりであったが、ジュナイド自身はシャトフやスクル(sukr 陶酔)といった陶酔型のスーフィズムを不十分なものとして批判し、師であるバスターミーが陶酔状態こそ最高の境地としたことに対して、スクルの後に来る第2の素面である「酩酊からの覚醒、酔い覚まし」をこそより高い境地とみなした。ジュナイドはスクル(sukr 陶酔)よりサフウ(ṣaḥw 覚醒)、ファナー(fanā' 消融)よりもバカー(baqā' 存続)を重視した。この「陶酔」と「覚醒」いずれが最高の境地であるかについては、スーフィズムの思想史上の大きな問題として後代まで議論され、イブン・タイミーヤのイブン・アラビー批判もその延長線上にあると見る事が出来る。 しかしながら、イブン・タイミーヤが名指しするイブン・アラビーらの「酔言」に対して懸念した点は、アッラーフによって滅ぼされたファラオやイブリースといったこれらの存在も(ハッラージュやイブン・アラビーらが主張するように)「正しい」「真の信仰者」としてしまっては、不信仰者(カーフィル)へのジハードやハッド刑も認められなくなってしまう事であり、これを許容してしまうとイスラームにおける社会秩序が崩壊してしまうため、イブン・タイミーヤをはじめとする(スーフィー行者であっても)ムスリムの社会性を重視するウラマー達にとっては断じて認められなかった。(実際に、ハッラージュはその過激な言動や見解についてしばしば師のジュナイドから叱正された逸話がアッタールの『神秘主義聖者列伝』等で伝えられており、さらに当時異端視されていたザンダカ主義者であるとの批判や、同じくファーティマ朝やアッバース朝のカリフを認めず一時バグダード征服を狙って叛乱を起こしたカルマト派との繋がりの嫌疑を受け、最終的にはカリフ・ムクタディル(:en)の治世(922年)にバグダードで逮捕・処刑されている) イブン・タイミーヤの主張では、昨今のモンゴル帝国の侵攻や人々のシャリーア無視の原因は、こういった「存在一性論」の論者達等の出現によるものである、としていた。
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