イブン・アッ=ズバイルに対する勝利とは? わかりやすく解説

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イブン・アッ=ズバイルに対する勝利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 02:08 UTC 版)

アブドゥルマリク」の記事における「イブン・アッ=ズバイルに対する勝利」の解説

詳細は「マスキンの戦い」および「メッカ包囲戦 (692年)」を参照 シリアジャズィーラにおける脅威取り除かれたことで、アブドゥルマリクイラク再征服専念できるようになった。ムスアブ・ブン・アッ=ズバイルハワーリジュ派反乱軍との戦いバスラクーファで不満を抱くアラブ部族との抗争によって身動き取れなくなっている間に、アブドゥルマリク密かにこれらのアラブ部族支配層接触し味方引き入れていった。このためアブドゥルマリクシリア軍率いて691年イラクに入るまでにはイラク奪還向けた取り組み実質的に終わっていた。シリア軍指揮アブドゥルマリク一族執り、弟のムハンマド前衛軍、ヤズィード1世息子ハーリドアブドゥッラー英語版)がそれぞれ右翼軍と左翼軍を率いた多くシリア部族有力者がこの軍事作戦難色示しアブドゥルマリクへ自ら参加しないように助言していた。それにもかかわらずドゥジャイル運河英語版)沿いに位置するマスキンでムスアブの軍隊対峙した際にはカリフが自ら陣頭立った続いて起こったマスキンの戦いではムスアブ軍の多くの者がクーファムフタール支持者たちに強いた多大な犠牲憤慨していたために戦闘拒否し有力な指揮官であったイブラーヒーム・ブン・アル=アシュタル戦闘の開始時に戦死したアブドゥルマリクはムスアブに対しイラクかムスアブが望む地の総督地位与えると持ち掛け降伏促したものの、ムスアブはこれを拒否して戦死遂げた勝利したアブドゥルマリククーファ有力者たちから忠誠の誓いを受け、イスラーム国家東部諸州総督任命した。そしてヒジャーズのイブン・アッ=ズバイル制圧するために総勢2,000人のシリア軍派遣した。この遠征軍指揮官であるアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ(英語版)は、実力出世掴みカリフの非常に有能な協力者となっていた。ハッジャージュは数か月の間メッカの東に位置するターイフに陣を構えアラファト平野でイブン・アッ=ズバイル支持者たちと何度も小競り合い繰り返したアブドゥルマリク先にイブン・アッ=ズバイル派の総督からマディーナ奪っていたマウラーターリク・ブン・アムル英語版)が率い援軍送った692年3月にハッジャージュはイブン・アッ=ズバイル本拠地であるメッカ包囲しイスラームの最も神聖な聖域であるカアバカタパルト砲撃した最終的にイブン・アッ=ズバイル息子を含む10,000人の支持者降伏して恩赦受けたが、イブン・アッ=ズバイル主だった支持者たちはカアバ抵抗続け9月10月にハッジャージュの部隊によって殺害された。イブン・アッ=ズバイル死によって第二次内乱終結しイスラーム国家アブドゥルマリクの下で再統一された。キリスト教徒宮廷詩人であるアルアフタルは、文学史家のスザンヌ・ステトケヴィッチがアブドゥルマリク勝利を宣言」し「正当化」することを意図したものであると主張している詩の中で、イブン・アッ=ズバイル倒される直前直後時期アブドゥルマリク次のように讃えた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}その才能が我々を見放すことなく、神が勝利をもたらした者へ、その勝利を長く楽しませよう戦い深み身を投じ幸運兆しとなるその者は、人々乞う神のカリフである。その者の魂が意思を囁くならば、勇気戒め二つ鋭利な刃のようにし、毅然としてその者を先へと送り出す。その者の中には共有する幸福が宿り、その者が保証した後にはいかなる危機もその誓約からその者を誘惑することはできない。 —アルアフタル640年 - 708年)、『ハッファ・ル=カティーヌ』(去って行った部族勝利を収めたアブドゥルマリククライシュ族内部ウマイヤ家対立したズバイル家やアリー家を含むヒジャーズ支配層との和解目指した。683年ヒジャーズ追放されウマイヤ家一族がこの地域不在であったため、アブドゥルマリク別のクライシュ族氏族であるマフズーム家(英語版)を仲裁者として利用した。しかし、一方でヒジャーズ支配層野心警戒していたアブドゥルマリク油断することなくマディーナ何人かの総督通してこれらの人々監視続けていた。ヒジャーズ加えてイエメンとヤマーマ(英語版)(アラビア半島中部)の総督にも任命されアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフは、693年694年ハッジメッカへの巡礼)の巡礼者キャラバン統制した。ハッジャージュはヒジャーズの平和を維持していたが、その統治厳しさ住民から多くの不満を招きアブドゥルマリクによってその任を追われる原因になったとみられている。最終的にマフズーム家の出身アブドゥルマリク義理の父にあたるヒシャーム・ブン・イスマーイール(英語版)が総督任命された。ヒシャーム701年から706年にかけての任期中マディーナ住民残忍に扱ったことで知られている。

※この「イブン・アッ=ズバイルに対する勝利」の解説は、「アブドゥルマリク」の解説の一部です。
「イブン・アッ=ズバイルに対する勝利」を含む「アブドゥルマリク」の記事については、「アブドゥルマリク」の概要を参照ください。

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