イブン・アル=ハキームの台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 10:19 UTC 版)
「ムハンマド3世 (ナスル朝)」の記事における「イブン・アル=ハキームの台頭」の解説
詳細は「アブー・アブドゥッラー・ブン・アル=ハキーム(英語版)」を参照 ムハンマド3世の治世にワズィールのアブー・アブドゥッラー・ブン・アル=ハキーム・アッ=ルンディー(以下、イブン・アル=ハキーム)の権力が増し、最終的にはスルターンを凌ぐほどの最高権力者となった。イブン・アル=ハキームがいつ、どのようにして絶対的な権力を手に入れたのかは定かではないものの、スルターンが盲目(あるいは視力の低下)のために多くの職務を果たせなかったことが一因であったと考えられている。ロンダの出身でかつてのアッバード朝の分家の子孫であったイブン・アル=ハキームは、ムハンマド2世の治世中の1287年にカーティブ(書記官)として宮廷に入り、その後、宮廷書記官における最高位の地位にまで上り詰めた。 ムハンマド3世はイブン・アル=ハキームを重用し、父親のワズィールであったアッ=ダーニーとともに共同のワズィールに任命した。年老いていたアッ=ダーニーは、自分の死後にナスル朝の王家と縁戚関係にあるカーイド(軍事責任者)のアティーク・ブン・アル=マウルを単独のワズィールとして後継者にしたいと望んでいた。しかしながら、1303年にアッ=ダーニーが死去すると、ムハンマド3世はイブン・アル=ハキームを継続してワズィールに指名した。ワズィールとカーティブという二つの強力な地位を手にしていたことから、イブン・アル=ハキームはズル=ウィザーラタイン(二つの宰相位の保持者)という称号で呼ばれた。1303年にコルドバで締結されたカスティーリャとの条約にムハンマド3世の名において署名したのもイブン・アル=ハキームであり、ナスル朝が征服したセウタをスルターンに代わって訪れたのもイブン・アル=ハキームである。その権力が増すにつれて宮廷詩人たちはスルターンよりもイブン・アル=ハキームに詩を捧げるようになり、イブン・アル=ハキームは宮殿で贅沢な暮らしを送った。
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