イギリスでの虜囚時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 00:51 UTC 版)
「ルドルフ・ヘス」の記事における「イギリスでの虜囚時代」の解説
5月11日、ヘスはハミルトン公と面会して身分を明かした。事態の重大さに驚いたハミルトン公は彼をブキャナン城に移し、政府に連絡を取った。同じ頃、副官ピンチュはオーバーザルツベルクのベルクホーフに到着し、3時間待たされた後にヒトラーにヘスの書簡を見せた。これを読んだヒトラーは驚愕し、「何ということだ、ヘスがイギリスへ逃走した」と叫んだという。ピンチュはその後逮捕され、1944年まで収監された。 5月12日、ドイツではヒトラーと外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップが討議し、ヘスの逃走を認可すれば、ドイツが同盟国を裏切って対英単独講和を行おうとしたと取られることを危惧した。午後8時、ミュンヘン放送局で「党員ヘスが病気進行のため、総統の制止を振り切って飛行機に乗って飛び立ち、帰還していない」とヘスの逃走がはじめて公表された。 イギリス時間5月13日午前0時、ハミルトン公とともにヘスの元を訪れたBBCヨーロッパ部長アイヴォン・カークパトリック(Ivone Kirkpatrick)は、その人物が間違いなくヘスであると確認した。ヘスはカークパトリックらに4時間にわたって語りかけ、ヨーロッパにおけるドイツの「フリーハンド」を要求した。午前6時、BBCでヘスの脱走がはじめて報道された。ただし、理由については「イギリスはゲシュタポから逃れられる唯一の国である」と述べたのみであった。カークパトリックの報告を受けたウィンストン・チャーチル首相は、「ヘスだろうが何だろうが、わしはまずマルクス兄弟の映画を見る」とジョークを飛ばすなど冷静に対処し、その後ヘスを「国家捕虜」として扱い、陸軍省によって拘禁することを決めた。 ヘスがイギリスに到着したことを知ったドイツは再度放送を行い、精神異常の結果であったことを強調した。また、外相リッベントロップはイタリアのベニート・ムッソリーニ首相と会談し、ヘスが精神異常であったことを説明した。ムッソリーニは表面上は愛想良く振る舞い、ドイツ側に諒解の意を伝えたが、後にイタリア外相ガレアッツォ・チャーノに、「ナチス体制にとっては大打撃だが、ドイツの権限を失墜させる点では喜ばしい」と語っている。 5月16日、ヘスはブキャナン城からロンドン塔に移送された。彼はロンドン塔に幽閉された最後の人物となった。チャーチルはヘスの対英和平意図を議会で公表しようとしたが、閣僚の反対を受けて断念した。同日、ナチス本部は「ドイツに関する限り、ヘス事件は終了した。我々はもはやヘス氏と何の関わりもない」と声明した。これ以降、両国政府がヘスに関して動きを見せることはなくなった。 メッサーシュミットやハウスホーファーらピンチュ以外の関係者は取り調べを受けたが短期間で釈放された。ヘスの権限は新たに党官房長に任命されたボルマンが掌握した。しかしヘスの写真はドイツ各地で他のナチス幹部と同様に飾られ続け、家族には閣僚としてのヘスの年金が支払われ続けた。 5月20日、ヘスはファンボロー付近のミチェット・プレイス基地に移送された。拘禁生活でヘスは鬱病を悪化させ、食物に毒物が入っているのではないかという強迫観念にとりつかれた。6月15日、ヘスは部屋のバルコニーから飛び降り自殺を図ったが、一命はとりとめた。1942年6月26日、ヘスはウェールズのアバガヴェニーにある精神病院に収容され、終戦までそこにいた。
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