アンギャンの絶頂期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:28 UTC 版)
「アンギャン=レ=バン」の記事における「アンギャンの絶頂期」の解説
フランス第二帝政時代のアンギャン=レ=バンは、大半が湖畔で行われる豪奢なパーティーで有名だった。毎週日曜日にはスパの庭園で音楽会や舞踏会が、毎週水曜日は夜の舞踏会が催されていた。パリのブルジョワ階級はアンギャン=レ=バンの環境に惹きつけられ、当時鉄道を使えば駅へアクセスが容易だったことから主として湖のほとりに素晴らしい邸宅を建てた。政治家、企業家、芸術家が季節ごとにアンギャンの住人となった。ナポレオン3世の従妹マティルド皇女が隣のサン=ドナティアンに居を構えたとき、まだアンギャンのスパの熱狂は続いていた。 1864年1月20日の法令で、アンギャンはオルメッソン集落の41ヘクタールの土地を獲得した。この拡張が現在のところ最後となっている。1865年7月18日の法令で、アンギャン湖の水は公共のものであると認識された。普仏戦争では一帯はプロイセン軍支配下に入った。1875年、フィガロ紙創業者兼オーナーのイポリート・ド・ヴィルムッサン(fr)が町の水会社の株主となり、1877年に公正に賭博場の権力者の地位に上り詰めた。しかし小さな馬が小さな賭けで受け入れられたに過ぎなかった。競馬場は1879年6月に始められた。1891年には冬の劇場が建設され、観光シーズンは一年中に延長された。1886年当時、アンギャンの5エーカーのブドウ畑で、255ヘクトリットルのワインが作られていた。 1901年、大型船舶の形をした新しいカジノが完成した。1907年の法令で当局はスパやリゾート内、さらに広い新しい、現在もまだ目にできる建物での賭博を認めた。これがアンギャン初のカジノとなった。当時、カジノは客に帰りのパリまでの一等車両乗車券を提供していた。この訪問で彼らの顧客たちは破産しただろう。 1904年7月、長さ263mにおよぶ金属製ガードレールが、崩壊の危機に瀕していた湖前の木製の門と取り替えられた。1911年、この障壁は一転して現在の9m幅の、湖の上に張り出した錬鉄製手すりを備えた遊歩道に変えられた。 アンギャン=レ=バンの成功は、このような名声と経済的影響から利益を得たいという他のコミューンの願望の原点となった。かくして、1878年からパリ東部のリヴリー=ガルガンは、現在のセヴィニエ湖の水源を開発してアンギャンと競い合うようになった。当時のリヴリー市長は、セヴィニエ=レ=ゾー(Sévigné-les-eaux)と名づけた温泉保養地を建設したが、望んだほどの成功は得られなかった。1912年、リヴリー=ガルガン議会は、鉱泉保養地としての自治体の認知を求めた。しかし1912年11月、国立薬学アカデミーと厚生省はこれを拒否し、申し出は国務院にも政府にも退けられた。 1912年、新たな技術が町の催しの新たな道を見つけた。映画上映が運営され、ラ・ヴィル・ダンギャン(La Ville d'Enghien)と書かれた風船が上げられた。湖では多くの祝祭やコンクールが設定された。ボートのレガッタや、花のコンクールが定期的に開かれた。不運なことに、1914年の第一次世界大戦勃発が、ベル・エポック時代を突然終わらせた。 カジノは閉鎖され、コミューンの庁舎は軍事病院となった。唯一、毎週日曜日にキオスクでのコンサート演奏が許され、その他の行事は全て禁止された。
※この「アンギャンの絶頂期」の解説は、「アンギャン=レ=バン」の解説の一部です。
「アンギャンの絶頂期」を含む「アンギャン=レ=バン」の記事については、「アンギャン=レ=バン」の概要を参照ください。
- アンギャンの絶頂期のページへのリンク