アンギアン公
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 14:08 UTC 版)
「栄光のナポレオン-エロイカ」の記事における「アンギアン公」の解説
フルネームは「ルイ・アントワーヌ・アンリ・ド・ブルボン=コンデ(Louis Antoine Henri de Bourbon-Condé, 1772年8月2日 - 1804年3月21日)は、フランスの亡命貴族(エミグレ)。アンギアン公(アンギャン公)の称号で呼ばれる。ブルボン公爵ルイ6世アンリと、『ベルサイユのばら』で王位を狙うルイ16世の従兄と黒い噂を囁かれ「フィリップ平等公(エガリテ)」を自称したオルレアン公ルイ・フィリップ2世ジョゼフの妹ルイーズ・マリー・テレーズ・バティルドの息子。コンデ親王の孫。王妃マリー・アントワネットの評判をかくも貶めた「首飾り事件」に巻き込まれたローアン大司教の姪シャルロット[要曖昧さ回避]と結婚し、その縁でローアンの邸宅があるバーデン大公国で暮らしていた。王位継承権の順位は低く共和国に関心は無かったが、1804年、フーシェにナポレオン暗殺未遂の濡れ衣を着せられて逮捕され、彼を出し抜いたタレイランの密命により銃殺刑に処された。国境侵犯を強行しての逮捕だった。フランス共和国を認めておらず、革命政府を逆賊と看做している。家門の誇りを守り盗まれた所領を奪還するためなら幾度でも剣を抜くとフーシェに言い放つ誇り高い貴公子であり、深夜の処刑に直面してナポレオンとの面会を拒絶され、墓穴を用意しての計画的な処刑だと知ってもなおブルボン家の公子だと胸を張り、目隠しを拒絶して死に臨んだ。ナポレオンの意思を無視して行われた処刑ではあるものの欧州諸国の君主にナポレオンに対する敵意を呼び覚ます原因になり、ナポレオンの個人的な罪として生涯をつきまとう汚点となった。
※この「アンギアン公」の解説は、「栄光のナポレオン-エロイカ」の解説の一部です。
「アンギアン公」を含む「栄光のナポレオン-エロイカ」の記事については、「栄光のナポレオン-エロイカ」の概要を参照ください。
- アンギアン公のページへのリンク