アルジェリア、チュニジア民族主義運動
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「フランソワ・シャトレ」の記事における「アルジェリア、チュニジア民族主義運動」の解説
1948年に哲学の大学教授資格を取得し、ジャンヌ=マリー・マトン(Jeanne-Marie Mathon)と結婚(1957年離婚)。同年、オラン(アルジェリア)の高等学校リセ・ラモリシエールに赴任した。同校の教員に歴史学のマルク・フェロー、哲学のジャン・コーアン(フランス語版)、文学のジャクリーヌ・ローザンブルム(フランス語版)(カミュ研究者)らがいた。シャトレとマルク・フェローはフランス労働総同盟の教員労働組合を結成し、シャトレが書記長に就任。現地の軍備拡張反対、脱植民地化、反戦運動を支持した。1949年に現地のフランス語日刊紙『オラン・レピュブリカン(フランス語版)(共和政オラン)』からの依頼で、後の同僚で哲学者・フーリエ研究者のルネ・シェレールとともに週刊コラムを担当した。同紙は、フランス共産党の支部として1920年に結成されたアルジェリア共産党(フランス語版)(1936年に独立)の機関紙であったが、党員の多くは欧州系の住民であり、シャトレはマルクス主義を支持しながらも、ソ連を支持する共産党とは特に国家のあり方について意見が対立することが多かった。 翌1950年には歴史学者アンドレ・マンドゥーズ(フランス語版)の紹介で、同年創刊の『コンシアンス・アルジェリエンヌ(Consciences algériennes、アルジェリアの良心・信条)』誌に編集委員として参加した。同誌には欧州系知識人のほか、現地の民族主義の知識人アブデルカデル・マハダッド(Abdelkader Mahdad)やアブデルカデル・ミムーニ(Abdelkader Mimouni)らも参加し、マンドゥーズが執筆した創刊の趣意には「人種差別と植民地主義を撤廃しない限り、アルジェリアの良心は不可能である」と書かれ、創刊号にはシャトレのマルクス主義的政治思想の出発点となった「民族主義と階級意識」、マンドゥーズの「アルジェリア問題に関する一キリスト教徒の考察」が掲載された。同誌は1954年に『コンシアンス・マグリビーヌ(Consciences maghribines)』に改題された。フランス語では「マグレビーヌ(maghrébine、マグレブ)」とすべきところ、「マグリビーヌ(マグリブ)」としたのは、宗主国フランスではなく中東(アラビア語)での発音に忠実な表記にすべきであるという民族主義者の主張によるものであった。だが、このときシャトレはすでにチュニジアに移住していた。港湾労働者のストライキを支持する演説をするなど、労働総同盟の現地支部で積極的な活動を展開したために帰国処分を受けたが、チュニスのカルノ高等学校(Lycée Carnot de Tunis)へ転任する機会を得て出国し、同校の文学グランゼコール準備級で哲学を教えることになったからである。著書『マルクス主義と構造主義』で知られる人類学者リュシアン・セバーク(フランス語版)は同校の教え子の一人である。だが、ここでもまた、チュニジアの民族主義運動を主導したハビーブ・ブルギーバのネオ・デストゥール(フランス語版)党(新立憲党)を公然と支持したため、大学区長リュシアン・ペイ(フランス語版)(のちにミシェル・ドブレ内閣の国民教育相)から叱責を受けた。
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