アルジェリアでの活動
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「バルバロス・オルチ」の記事における「アルジェリアでの活動」の解説
1512年8月にオルチはベジャイア近郊に上陸、スペイン軍が籠る稜堡に砲撃を行った。しかし、攻城戦の中でオルチが銃弾によって左腕を失い、指揮官が倒れた海賊団は退却を余儀なくされる。チュニスに退却したオルチが療養している間、弟のハイレッディンがラ・グレットを守った。一方、海賊団にガリオットを奪われたジェノヴァはアンドレア・ドーリアが率いる艦隊を追討隊として派遣し、攻撃を受けたハイレッディンはチュニスに逃亡した。船の半分をジェノヴァに奪われた敗戦にオルチは憤るが、翌1513年にハフス朝のスルターンにチュニスを追われ、ジェルバに移動した。1514年に再びベジャイアを攻撃するが攻略は失敗し、ベジャイヤの東に位置するジジェルを新たな本拠地に選んだ。 ジジェルに移動した後、7年にわたってスペインの圧力を受けているアルジェから救援を依頼されると、援軍を率いたオルチは海陸からアルジェに進んだ。当初アルジェの市民はオルチを歓迎したが、海賊団の粗野な振る舞いはアルジェの名家に失望を与え、オルチは援軍を頼んだアラブ人の首長サーリムを殺害する。アルジェ市民はスペイン軍と結託して反乱を企てるが、オルチは反乱を鎮圧し、アルジェに押し寄せた7,000人からなるスペインの艦隊を撃破する。オルチはアルジェに進攻したティンニス(英語版)の軍を撃破し、1517年にティンニスを占領した。ザイヤーン朝の首都トレムセンもオルチの支配下に入り、スペイン人が支配するオラン、ベジャイア、ペニョンを除き、現在のアルジェリアの大部分を支配していた。
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