アルザマス16
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/02 05:01 UTC 版)
ソ連は第二次世界大戦中の1943年から原子爆弾研究を進め、アメリカでマンハッタン計画に従事していた科学者のセオドア・ホールやクラウス・フックスらからも内部情報を得て開発を完成へと近づけた。アメリカが原爆を使用したことを受け、ソ連も1946年4月に原爆工場の建設を決定した。研究所と工場の場所は1945年末から選定が始まっており、深い森林地帯の奥にあり、なおかつ鉄道が通っていたため物資輸送にも便利なサロフがその場所に選ばれた。 同年からドイツ軍の捕虜やNKVDから送られた強制労働者らにより研究所と工場の建設が行われた。1947年2月にはサロフは閉鎖地域とされモルドヴィア自治共和国の下から離され、一般の地図や資料からもその存在を抹消された。サロフは以後「アルザマス16」と呼ばれたが、アルザマスは北に75kmも離れており、これは西側に対し核兵器研究所・工場がアルザマスの近郊にあると見せかけるための偽装であった。研究所は1947年春に稼働を始めており、ソ連の核開発をつかさどる第11設計局(OKB-11)の本部が置かれた。 冷戦後、1991年にアルザマス16にはクレムリョフ(ロシア語: Кремлёв)という都市名が与えられたが、住民からのボリス・エリツィン大統領に対する要望により、1995年に元の名であるサロフへと再度改名された。 一方、1989年以来、アルザマスやニジニ・ノヴゴロドの聖職者らがサロフを訪れ、1991年8月にはモスクワ総主教アレクシイ2世もサロフを訪問した。以後、研究所の所内にあった聖堂の移築や再開が進み、2006年には聖シノドが修道院の再建を決定した。
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