アラカンと鞍馬天狗
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マキノで撮った1927年の初作『鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子』から、1956年の『疾風!鞍馬天狗』までの実に30年の長きにわたり、アラカンは40本もの『鞍馬天狗』映画に主演している。もっともこれは確認漏れもあり、アラカン自身は「46本のはずだ」と述べている。一方、「庶民のスタア」だったアラカンは批評家からは「アラカンといえばB級・娯楽版、お子様ランチ」などと差別された一面もあった。 アラカンは当たり役『鞍馬天狗』を引き受けた理由として、杉作という子供のキャラクターを挙げ、「昔から、子供の出る芝居は必ず当たるんですね。“先代萩”ありますやろ。チャップリンの“キッド”ありますやろ。子供が出るので、こりゃいけると思いまして、出さしてもらいますと返事しました。子供使うの得や。思ったとおり、大当たりとりました」と語っている。 長三郎時代からアラカンの殺陣は軽快で「スポーツ剣戟」と評されたこともあった。マキノ雅弘はアラカンの殺陣について「わりあいリアルで伸びが良かった」と語っている。稲垣浩によると、立ち回りで相手に刀(竹光)をパチーンとぶつけることで有名だった。一度立ち回りの際に気合いで六尺棒を竹光で真っ二つに斬ったこともあったという。 鞍馬天狗の立ち回りについては決して下着を見せなかった。「女形をやってましたから、これが結果としてよかったのでしょう。女形の裾さばきちゅうもんはチャンバラと合うんですワ。でも私には、人を斬ったるという気がありました。竹光だから斬れへん。周りは弟子がかためましたから、遠慮いりまへん。弟子にはずいぶん怪我さしてます。でも他人には怪我さしてません」と語っている。 そんなアラカンが一番怖かったのは大河内傳次郎だったという。「私の時に限って真剣使うんですワ。一番仲良かったけど、やっぱり気構えが違うんですな。いつも大河内さんは近藤勇の役で、しかもあの人、近眼でっしゃろ。怖かったですよ」。 1928年に寛寿郎が「マキノ御室撮影所」を退社したが、これは『角兵衛獅子功名帖』を「鞍馬天狗最終作」と会社側が勝手に決めてしまったことが最大の理由であった。また理由はこれだけではなく、折しもこの年マキノ省三が伊井蓉峰を主役に起用して『忠魂義烈 実録忠臣蔵』を制作しアラカンも出演したが、新派の大物である伊井の尊大な態度や監督の指示を聞かない勝手な演技などの我がままを、マキノたちスタッフが招聘した手前どうにもできずに容認していたことを目の当たりにし、このことへの不満も、アラカンに退社の決意を固めさせた要因であったという。 その後、戦中戦後の混乱や空白も乗り越えて、約30年にわたってアラカンは数々の『鞍馬天狗』を制作し演じていたが、1954年、原作者の大佛次郎が自ら『鞍馬天狗』映画の製作に乗り出した。この際にアラカンに不満を言い鞍馬天狗役を封印させたが、大佛の手掛けた、小堀明男を主演に据えた『新鞍馬天狗』は結局、日本映画史に残るとまで言われる(それどころか、作家としての大佛自身の評価にまで傷がつく程の)大失敗作に終わり、『新鞍馬天狗』で映画館が被った損失の補填というとんだあおりを食らってアラカンは代理で2本出る羽目になっている。このときも「言うたら悪いが、生きてる天狗はわてがつくった。」とアラカンは、暗に大佛次郎を非難している。 人物伝としては、この奇骨の人物を愛した竹中労による『鞍馬天狗のおじさんは - 聞き書きアラカン一代』がある。晩年のインタビューによると原作者の「天狗が人を斬りすぎる」という意見に対して、アラカンは「活動大写真」(アラカンの表現)としての立場から同意していない。
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