アラカンと寛プロとは? わかりやすく解説

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アラカンと寛プロ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 01:40 UTC 版)

嵐寛寿郎」の記事における「アラカンと寛プロ」の解説

映画プロデューサーとして、アラカン制作姿勢前衛的だった。1931年には、最初色彩時代劇である、『京一番風流男』(仁科熊彦監督)をパートカラーで撮り1935年には『春霞八百八町』(マキノ正博監督)で真っ先国産トーキー・映音システム採用している。 1928年に、マキノ映画スターたち6人が独立してそれぞれプロダクション興したが、20mも離れていなかった千恵プロと寛寿郎プロ対抗意識強くプロぐるみで反目し合っていた。結局この2つプロダクションだけが生き残ることとなっている。自らが映画プロデューサー務めたこの寛寿郎プロでは、1938年公開の『出世太閤記』を「よろしおしたな。あの映画一生の思い出ドス。」と語っている。 この作品アラカンは自ら御殿場ロケで使う馬の交渉に当たり、また実現しなかったが阪東妻三郎信長役での出演頼みに、阪妻邸まで出かけていって頭を下げたりと精力的にプロデューサー役に務めた稲垣浩は「山中貞雄発見したのもそういう情熱あったからだろう」と語っている。そんなアラカン晩年は「ちかごろ時代劇アキマセンな。なんでこないなことになったドスやろ」と嘆いていたという。

※この「アラカンと寛プロ」の解説は、「嵐寛寿郎」の解説の一部です。
「アラカンと寛プロ」を含む「嵐寛寿郎」の記事については、「嵐寛寿郎」の概要を参照ください。

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