アラカンと寛プロ
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映画プロデューサーとして、アラカンの制作姿勢は前衛的だった。1931年には、最初の色彩時代劇である、『京一番風流男』(仁科熊彦監督)をパートカラーで撮り、1935年には『春霞八百八町』(マキノ正博監督)で真っ先に国産トーキー・映音システムを採用している。 1928年に、マキノ映画のスターたち6人が独立してそれぞれプロダクションを興したが、20mも離れていなかった千恵プロと寛寿郎プロは対抗意識が強く、プロぐるみで反目し合っていた。結局この2つのプロダクションだけが生き残ることとなっている。自らが映画プロデューサーを務めたこの寛寿郎プロでは、1938年公開の『出世太閤記』を「よろしおしたな。あの映画は一生の思い出ドス。」と語っている。 この作品でアラカンは自ら御殿場ロケで使う馬の交渉に当たり、また実現しなかったが阪東妻三郎に信長役での出演を頼みに、阪妻邸まで出かけていって頭を下げたりと精力的にプロデューサー役に務めた。稲垣浩は「山中貞雄を発見したのもそういう情熱があったからだろう」と語っている。そんなアラカンも晩年は「ちかごろの時代劇アキマセンな。なんでこないなことになったのドスやろ」と嘆いていたという。
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