アイデア・プロデュース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 00:20 UTC 版)
練習内容 現在、世界各国で使われている速攻、移動、時間差などといったバレーボールの攻撃システムの基礎を築き上げ、バレーボールの近代化と普及発展にも貢献した。 ミュンヘン五輪の全日本男子チームに対して、倒立(逆立ち)で9メートル以上歩けるようにさせる練習をした。松平は「逆立ちで9メートル以上歩けるようにならなければ、オリンピックに行かせない。」と言ったが、大古はなかなかできず、苦労した。トレーナーの斎藤勝らと共に編み出した練習方法の数々 を含めて「松平サーカス」とも呼ばれた。 全日本男子代表チームを鍛えるために、海外遠征も積極的に行った。1968年8月20日に起きたワルシャワ条約機構軍のチェコスロバキア侵攻の際には、全日本男子代表チームがチェコスロバキア遠征中であり、宿泊先のプラハ市内のホテルからソビエト連邦の戦車が走る場面を目撃したことを後年、テレビ番組で語っている。 1970年代当時、スウェーデンやフィンランド等、当時の日本とレベルが下がる北欧諸国に遠征したが、その目的は『“鉄のカーテン”に阻まれ、情報を容易に入手出来なかった最大のライバル国・ソビエト連邦代表の動向を探るためであった』ことを松平は明かしている。 1971年には、対戦経験のなかったバレーボール東ドイツ代表を日本へ招聘して親善試合をするために、東ドイツ工芸品展覧会とのタイアップを企画。その当時、日本と東ドイツとの間には国交がなかったことから佐藤榮作政権で当時外務大臣を務めていた愛知揆一に直談判して、東ドイツ代表チーム(DDR・ライプツィヒ選抜軍)の来日を実現させた。これがきっかけとなり、日本と東ドイツとの間に国交が樹立されることともなった。 PR活動 松平は、チームが勝つだけでは自己満足で意味がないと考え共感を持ってくれる人を社会に増やすことにも重きを置き、PR活動にも尽力した。その行動から「スポーツ界のアイディアマン」とも呼ばれた。 ミュンヘン五輪の全日本男子チームを盛り上げるために『アニメドキュメント ミュンヘンへの道』という男子バレー選手が登場するテレビ番組を企画し、監修を行った。 また、松平は男子バレーボールの人気獲得のために10-20代の女性をターゲットとした。背が高くスタイルの良いバレー選手は女性の関心を集めるだろうと考え、少女雑誌を中心に男子バレーを紹介した。やがて試合会場は女性達の声援で満たされるようになった。バレーのファンを増やすために、積極的にバレーの練習を一般公開した。 話題づくりのために、選手に対して以下のようなユニークなキャッチフレーズもつけた。 中村祐造 - 「ガッツ祐造,チームを世界一に引っ張っていく機関車,率先垂範のキャプテン」 猫田勝敏 - 「世界一のセッター,日本オーケストラの指揮者」 森田淳悟 - 「フジヤマ・ブロック」 大古誠司 - 「世界の大砲」(「世界一の大砲」) 選手のキャッチフレーズ以外の命名もあった。 ミラクル東亜(東亜学園) スーパーエース その他 ソフトバレーボールの小学校教材化の実現推進や、小学生バレーボールにおける「フリーポジション制」という特別ルール(ライオンカップ第12回大会から導入)の提唱を行った。 リベロ制度も、松平とルーベン・アコスタが考案した制度だという。 また、自らの名前が冠になった(唯一の)大会「松平CUP中学選抜バレーボール大会」が、毎年開催されている(主催:松平CUP実行委員会、後援:学校法人駿台学園ほか)。
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