ゆづきじょうあととは? わかりやすく解説

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湯築城跡

名称: 湯築城跡
ふりがな ゆづきじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 愛媛県
市区町村 松山市道後公園
管理団体
指定年月日 2002.09.20(平成14.09.20)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 湯築城跡は,松山市街地の東部古くからの温泉地として知られる道後温泉入口位置し石手川右岸扇状地北からのびる高縄山系の丘陵南端突出する場所にある河野氏城跡である。
湯築城跡は,南北350m,東西295mの長い隅丸亀甲形をなし,中央の比高差31mの丘陵部中心とし,内側土塁を伴う堀を二重築いた平山城である。
 河野氏は,伊予国越智郡本拠とする在地豪族であったとされ,古代末期には武士化して中予東予実権握っていったものと考えられる平安時代末の通清の時代には,風早郡河野郷本拠移した源平の戦い活躍し鎌倉期には御家人となり,家臣団構成するうになる。なお,一族には,時宗開祖一遍もいる。河野氏は,その後元寇時に水軍率いて活躍し伊予国における地位確固としたものとしていった足利尊氏挙兵に対しては,足利方に味方しこの頃温泉郡湯築城築城したもの伝えられる室町期には,河野氏伊予国守護職に任ぜられ,応永の乱嘉吉の乱応仁の乱などで活躍したが,一方で讃岐細川氏国内への侵攻や,河野氏内部惣領家分家である予州家との対立があり,戦国期には家臣団内訌在地勢力反抗などで力を落とし天正13年(1585)の豊臣秀吉四国攻めによる小早川隆景らの攻撃滅亡することになる。その後湯築城は,廃城となった江戸期には,松山藩城跡管理し年数回の祭礼時の開放されたとされ,遺構そのまま残された。
明治期入り当地明治19年(1886)に道後植物園となり,21年1888)には県立道後公園として活用され域内遊園地県立道後動物園松山市子規記念博物館などの施設配置された。昭和62年1987)の動物園の移転に伴う,跡地利用のための発掘調査により,湯築城跡の遺構良好に保存されていることが確認された。
調査は,動物園地区中心に昭和63年度から平成11年度まで実施され湯築城拡張整備されたとする16世紀前半以降4時期にわたる遺構面確認された。また,城跡南東側には庭園を持つ屋敷群,南西側には家臣団のものと想定される8区画の屋敷跡,その屋敷群と丘陵地区とを画する内堀などが検出された。出土品としては,青磁青花の盤・大皿・鉢などの輸入陶磁器多量に出土している。その他,城跡内の確認調査によって,丘陵部頂部の郭と北側の郭を画する堀切丘陵各所所在する小郭群の礎石建物鍛冶遺構土器投棄土抗,丘陵屋敷群を画する内堀とそれに伴う土塁搦手門遺構など検出され江戸期描かれたと想定される『湯築古城図』の配置良く合っていることが確認された。
 このように発掘調査により,守護大名として伊予国君臨した河野氏城館である湯築城跡の内容確認され現状残っている外堀外堀土塁丘陵部以外の遺構保存状態良好であることが確認された。湯築城跡は,戦国時代における伊予国歴史考え上で重要な城館跡であり,史跡指定し保護図ろうとするものである
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史跡:  清色城跡  渋野丸山古墳  湯島聖堂  湯築城跡  滝山城跡  潜塚古墳  瀧沢石器時代遺跡



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