潜塚古墳
名称: | 潜塚古墳 |
ふりがな: | くぐりづかこふん |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 福岡県 |
市区町村: | 大牟田市黄金町 |
管理団体: | |
指定年月日: | 1977.02.17(昭和52.02.17) |
指定基準: | 史1 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | S51-12-016[[潜塚古墳]くぐりづかこふん]16.txt: この古墳は、筑後と肥後との境、大牟田市の東方、小独立丘陵上にある円墳である。本古墳は、昭和34年、大牟田市教育委員会が調査を実施している。墳丘は、直径30メートル、高さ6.5メートルの円墳であるが、本来の高さは約8メートルと復原される。墳丘の下部3分の1は地山を整形したものである。 古墳の内部構造としては、墳丘中央に箱形の組合せ石棺2基が主軸をほぼ南北に向け、並列して検出されている。東の棺は、凝灰岩を用いており、内法で長さ約1.7メートル、幅0.5~0.4メートル、深さ0.5~0.45メートル、蓋は1石で組み込みがある。西の棺は1.3メートル離れて設けられており、規模は東棺とほぼ近い。床石、蓋石等も砂岩の切石を用いている。棺の南北には小石室が附属し、また、南端近くに土師器壺2個を置いていた。 出土品としては、東棺内で人骨と神人竜虎画像鏡、管玉2、棺外からは鉄剣1、刀子2、鉄鎌1などがあり、西棺の棺内には内行花文鏡片1、棺外には銅鏃47、鍬先1、鎌1、斧2、鉋2、その他鉄製品若干、土師器壺2がみられる。内行花文鏡は破砕後磨研され、2孔がうがたれている。両棺の間に鉄剣の破片がある。 この古墳は、九州における前期に属する古墳の一つとされており、墳形も円墳であり、内部主体は前代に九州で普遍的にみられる箱式石棺の様相を引き継ぎ、在地色の強いものと考えられる。副葬品は前期古墳に通有のものであり、特に在地性は認められないが、九州における古墳発生期の状況を知る上で重要な古墳である。 |
潜塚古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/27 00:31 UTC 版)
潜塚古墳 | |
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所在地 | 福岡県大牟田市黄金町 |
位置 | 北緯33度00分58秒 東経130度27分04秒 / 北緯33.01611度 東経130.45111度座標: 北緯33度00分58秒 東経130度27分04秒 / 北緯33.01611度 東経130.45111度 |
形状 | 円墳(前方後円墳の可能性あり) |
規模 | 径30メートル、高さ7メートル |
築造時期 | 5世紀中葉 |
史跡 | 国指定史跡 |
地図 |
潜塚古墳(くぐりづかこふん)は、福岡県大牟田市黄金町にある古墳(円墳)。1977年(昭和52年)2月17日に国の史跡に指定された。
概要
大牟田市内の独立丘陵上に営まれた古墳で、周囲の農地化により原形を損なっている。径30メートル、高さ7メートルほどの円墳と推定されるが、前方後円墳の可能性もある。副葬品から、築造時期は5世紀中葉とみられる[1]。
本古墳は、その副葬品の内容から、畿内様式の古式古墳の南限とされている[1]。
構造
1959年に内部主体の調査が実施された。内部主体は南北方向を軸に置かれた箱式石棺2基で、東を1号、西を2号とする。遺体の頭部は2体とも北向きであった。1号主体、2号主体ともに石棺は側壁・小口をそれぞれ1枚の切石で造るが、材質は1号が凝灰岩、2号が砂岩である。また2号の石棺のみ、足元側に小さな仕切り(副室)を設ける点も異なっている。石棺の内法大きさは、1号が長さ1.7メートル、幅0.5メートル、2号が長さ1.8メートル、幅0.5メートル、2号の副室が25×35センチである[1][2]。
出土品
副葬品は、1号石棺内から神人龍虎画像鏡1、碧玉管玉2、石棺外から鉄剣1、鉄刀子2、鉄鎌1、鉄鉇(やりがんな)1が出土。2号石棺内から内行花文鏡片、石棺外から銅鏃47、鉄鍬先1、鉄鎌1、鉄斧2、鉄鉇2、土師器壺2が出土している[1]。
脚注
参考文献
- 文化庁文化相保護部史跡研究会監修 『図説日本の史跡3』同朋舎出版、1991年。
- 飛野博文「潜塚古墳」 『図説日本の史跡3』1991年、205頁。
- 大塚, 初重、小林, 三郎、熊野, 直也編 『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。
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