大逆事件
「大逆事件」とは、1910年に起きた明治天皇の暗殺を計画したとして複数の社会主義者や無政府主義者が検挙・処刑された事件のことを意味する表現である。
「大逆事件」の基本的な意味
「大逆事件」とは、1910年に起こった明治天皇暗殺未遂事件に関わったとされる人物が多数検挙、処刑された弾圧事件のことである。明治天皇の暗殺を目論み、爆弾を製造していたとして幸徳秋水を含む関係者26名を有罪とし、その中の12人は死刑判決を受けることとなった。死刑判決を受けたほとんどの人物は冤罪であったということも分かっている。日本は明治時代の後半に差し掛かると、社会主義や無政府主義などの色々な考え方が広まるようになる。これは、社会主義運動に力を入れていた幸徳秋水や片山潜の運動が活発になり、様々な思想が広まったことも理由だ。さらに1900年代に突入すると日本社会党や社会民主党、平民社などの社会主義団体が結成されるようになる。このような思想の広がりや活動は明治政府の転覆や体制の変革を起こしかねないとして、政府側は危機を感じていた。明治政府は現体制を守るためにも1900年には治安警察法を定め、社会主義者や無政府主義者を取り締まるようになる。明治政府からの弾圧が強まっていくなか、社会主義者であった幸徳秋水らは明治天皇を暗殺しようとしているのではないかと疑いをかけられる。暗殺を目論んでいると判断された幸徳らは大逆罪を犯したとして、検挙、処刑されたのである。大規模な検挙と処刑によって社会主義運動や無政府主義運動は少なくなり、社会主義者にとっては冬の時代が訪れる。
幸徳秋水らが主張していた社会主義は人々の不平等を無くそうという考え方で、土地やお金の配分を全て平等にするという思想である。資本主義では貧富の差が起こりうることもあるが、国家が主導して平等な分配をしようというやり方だ。一方で無政府主は国や政府が個人に対しての支配をしない社会を目指すことである。どちらも明治維新後に築いてきた日本の国家体制や政府のあり方を危機に陥れるとして、弾圧の対象となったのだ。
幸徳秋水らの罪名は、大逆罪である。大逆罪とは天皇や皇后、皇太子などに何らかの危害を加えた罪で、明治時代では国家に逆らう重大な罪と位置付けられていた。またこの罪を犯した者は、死刑に処されるということもあらかじめ決められていたのである。大逆罪を犯したとして逮捕された26名のうち、12名が死刑判決を受けるという事態にまで発展した。しかしこれらの罪のほとんどは冤罪で、明治天皇を暗殺しようとしていたのではない。ほとんどの人たちは無実の罪を着せられたのだ。この一連の流れが「大逆事件」である。
大逆事件後は以前にも増して社会主義や無政府主義は厳しく取り締まるようになり、活動家たちは表に出て運動することが厳しくなっていく。特別高等警察という政治思想犯を取り締まる機関も権力を持つようになり、第二次世界大戦まで危険思想を取り締まる中心機関として活動していた。
大逆事件では新宮市出身の医師であった、大石誠之助も犠牲者の一人となっている。地元医療に尽くすことで有名な医師でもあったが、自由主義などの思想を広めたとして、罪に問われたのだ。大逆事件によって、43歳で命を落とした。
「大逆事件」の語源・由来
1882年に施行された旧刑法116条、1908年に施行された刑法73条にあった大逆罪が適用されて起きた事件であるため、「大逆事件」と呼ばれている。幸徳秋水が処刑された事件でもあるため、「幸徳事件」と言われることもある。「大逆事件」の使い方・例文
・明治時代に社会主義者や無政府主義者を処刑したのが大逆事件である。・大逆事件後は思想弾圧がより活発になった。
・大逆事件は幸徳秋水を含む関係者26名が有罪になった。
・大逆罪にかけられた人々は冤罪の人が多かった。
たいぎゃく‐じけん【大逆事件】
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