その後の軍事的・政治的な推移
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「コソボ紛争」の記事における「その後の軍事的・政治的な推移」の解説
「コソボ地位問題」も参照 紛争終結以降、コソボは国際連合の監督下におかれた。その間、コソボはその後、政治・軍事の両面で重要な成果を挙げてきた。コソボの地位は2008年まで未確定の状態が続いた。 国際連合安全保障理事会決議1244で規定された、コソボの最終的な地位を決定するための国際的な地位交渉は2006年に開始された。国際連合の元での話し合いは、国連の特使であるマルッティ・アハティサーリの指導の下、2006年2月に開始された。技術的な面での進展は得られたものの、コソボの地位そのものに関するセルビア、コソボ双方の主張は正反対のままであった。2007年2月、アハティサーリは、セルビアとコソボの双方の指導者らに対して、自ら提起した草案を送った。これは国連安全保障理事会の決議の草案の基盤として作成されたものであり、コソボに対して国際的な監督下での独立を提案するものであった。2007年7月までに、草案はアメリカ合衆国、イギリス、その他の安全保障理事会の欧州の理事国からの承認を取り付けたものの、国家の主権に対する侵害にあたるとする懸念を持つロシアの同意を取り付けようと、4度にわたって修正された。ロシアは、安全保障理事会で拒否権を持つ常任理事国であり、セルビアとコソボ双方が受け入れ可能なもの以外、あらゆる解決法を支持しないとしている。2008年2月のコソボの一方的な独立宣言によって、草案は無効となった。 2008年2月17日、コソボは独立を宣言し、直後にアメリカや、イギリス、ドイツなど一部の欧州連合加盟国、トルコなどが独立を承認し、日本政府も3月18日に承認した。一方で、セルビアはアメリカなど独立を承認した国から大使を引き上げた。ロシア、ルーマニア、スロバキア、キプロス、スペインなどは独立を承認しない方針を明らかにしている。2008年末の時点で、コソボは50を超える国際連合加盟国から独立の承認を得ている一方、独立宣言の後も安全保障理事会の決議の上ではコソボの地位は未確定のままであり、引き続き国際連合の監督下に置かれている。 2019年6月12日、コソボのプリシュティナで紛争終結20年の記念式典が開かれ、クリントン元米国大統領、オルブライト元米国務長官、クラーク元NATO最高司令官らが出席した。対セルビア攻撃を決断したクリントンはコソボで英雄視されており、プリシュティナに銅像が建てられているほか、コソボ当局から勲章を授与された。クリントンは式典で「未来を作るには新たな勇気と忍耐が必要だ」と両国に和解を呼びかけたが、セルビアは式典に参加せず、コソボ担当局長はコソボ側の戦争責任者が訴追されていないことに不満を表明した。 ミロシェヴィッチ大統領は紛争後、しばらくの間は政権に留まったもののコソボを事実上失ったことによって支持は低迷し、セルビア正教会の聖シノドからも退陣勧告が行われた。2000年にミロシェヴィッチ大統領を失脚させた反乱が起こった。ミロシェヴィッチ大統領はその後逮捕され、ハーグに送られた。ICTYによる判決を待つことなく、ミロシェヴィッチ大統領は2006年3月10日、拘置所内で自然死した。
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