『画家列伝』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 02:23 UTC 版)
「カレル・ヴァン・マンデル」の記事における「『画家列伝』」の解説
カレル・ヴァン・マンデルの著書『画家列伝(画家の書)』は、オランダのマニエリスム画家たちを書いた書物で、パスヒエ・ファン・ベスブッシュによって1604年に出版された。この書物は250人以上の歴史的または当時の画家たちの生涯と業績を書いたもので、同時代の意欲的な画家にとっては芸術論ともいえる存在だった。ヴァン・マンデルはイタリアを訪れていたときにジョルジョ・ヴァザーリの有名な芸術家伝記である『画家・彫刻家・建築家列伝』を目にした。この伝記は1550年に出版され、1568年に芸術家を追加し、芸術家の木版画がつけられた第2版が出版されているが、ヴァン・マンデルが研究したのはおそらく第2版だと考えられている。イタリア語で書かれていたこの書物をオランダ語に翻訳し、そしてこの作業中にハールレムでの美術品コレクションの目録作成を依頼された。そしてこの目録作成の結果が、『画家列伝』のネーデルラント出身の画家の章に反映されることになる。『画家・彫刻家・建築家列伝』も『画家列伝』もカトリックの聖人たちの伝記同様「Vita di」で始まり、複数の章立てで画家たちの長所をひとつずつ例示して賞賛するというスタイルになっている。『画家列伝』では、ギリシアやイタリアの画家たちの章の多くが『画家・彫刻家・建築家列伝』の簡単なオランダ語訳で構成されているが、ヴァン・マンデルが自身で書いたハールレムの画家たちの伝記は優れており、ヴァン・マンデルが以前に請け負った芸術品の目録作成の成果が結実しているといえる。 ヴァン・マンデルが『画家列伝』を書いていた当時、ハールレムは八十年戦争に起因するスペイン占領時代から回復しつつあったが、公式には1572年以来全てのカトリック教徒の所有財産は没収されたままだった。ハールレムの有力者たちはそれら没収された財産を取り戻すことよりも、修道女や修道士が自分たちの修道院で「死に絶える」ことすら望んだ。実際に修道士や修道女は社会に対して何の奉仕活動も行っておらず、多くの貧民が町にあふれる結果となっており、1609年に新しい救貧院が設立されたときには、その住人はほとんどがカトリック教徒だった。『画家列伝』の出版後、ハールレムの評議会は、資産目録に記載されていた重要な絵画を修復するためにフランス・ハルスを雇い入れた。ヴァン・マンデルはフランス・ハルスの師であり、ハルスはヴァン・マンデルの縁で絵画修復作業をハールレムの評議会に依頼されている。しかしハルスは、歴史絵画は芸術分野のヒエラルキーの最上位に位置するという、師であるヴァン・マンデルの従来からの信念を無視して作業を行った。1628年には美術コレクションが市庁舎に移設され、あまりに「ローマ・カトリック」風であると判断された美術品は「市外へ持ち出すこと」を条件に、画家コルネリス・クラース・ファン・ウィーリンゲン (Cornelis Claesz van Wieringen) に売却されている。 『画家列伝』には古代ローマの詩人オウィディウスが書いた『変身物語』の翻訳も含まれており、これは宗教的題材よりも古代神話に基づいた絵画を描くことが画家にとって必要であるということを意味している。当時は象徴的寓意を絵画に持たせることは非常に重要で、『変身物語』に出てくるキャラクターと画家が意図する象徴表現を組み合わせることにより、絵画に明確な物語性が生まれるとしている。『画家列伝』の最終章は、動物などが持つ象徴性についてのものである。
※この「『画家列伝』」の解説は、「カレル・ヴァン・マンデル」の解説の一部です。
「『画家列伝』」を含む「カレル・ヴァン・マンデル」の記事については、「カレル・ヴァン・マンデル」の概要を参照ください。
- 『画家列伝』のページへのリンク