『独考』の評価
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馬琴の著作物を通じて真葛の名は古くから知られていたが、真葛の著作は江戸・明治の両時代を通じて刊行されなかったこともあり、明治以降も真葛に言及した著作がみられた ものの、断片的ないし不正確な言及にとどまり、真葛の著作に拠らないものが多かった。 そうしたなかで、上述の中山英子は早くから『独考』に注目したひとりであり、中山は真葛を「女性解放の先駆者」と評価している。 柴桂子は、1969年(昭和44年)、江戸時代の女性の著作を広く渉猟して『江戸時代の女たち』を刊行した。そのなかで柴は、真葛を「哲学者であり、思想家であり、社会改良家」であるとしている。柴はまた『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994年11月)「只野真葛」項のなかで、真葛を「体系的な学問をしたわけではないが、国学、儒学、蘭学などのうえに独自の思想を築いていった」と記し、『独考』については、「偏りもあるが、江戸期の女性の手になる社会批判書であり、女性解放を叫ぶ書として評価できよう」としている。1977年(昭和52年)に刊行された『人物日本の女性史10 江戸期女性の生きかた』では、杉本苑子が「滝沢みちと只野真葛」のなかで『独考』を「ユニーク」で「大胆な」「文明批評」と評している。また、大口勇次郎は、真葛は「両性の肉体の差異性を確認することを通じて」「才知の面における両性の対等な関係を主張」したと指摘している。 門玲子は、1998年の『江戸女流文学の発見』のなかで、真葛と馬琴のやり取りを「ここで江戸後期のすぐれた男女の文学者が、全力でぶつかりあって、火花を散らしたのをみるように思う」 と述べ、真葛の『独考』と馬琴の『独考論』を比較している。それによれば、真葛『独考』は、馬琴が指摘するように「不学不問の心を師とし」たもので、あくまで真葛自身の独創的な議論であり、自問自答しながらたどたどしく考察し、既成のことばを用いないことから、晦渋な部分も含まれる のに対し、馬琴『独考論』は「儒教的な教養をもつ作家の堂々とした反論」 であり、文章はきわめて明晰であり、曖昧さも晦渋さもそこにはみられない としており、馬琴の立場や考えを擁護しながら「もし真葛が儒学を学んでいたら、もっと楽に息がつけたのではないだろうか」 と問いかけるいっぽう、「真葛は誰をも師とせず、儒仏の学を学ばず、まったくの独り学びでこの著作を書きあげた。だからこそ、その独創的なういういしい思索の芽が、教養の力によって摘みとられずに残されたとも考えられる」 と考察している。 また、「肉体の思想」という概念を用いて『独考』を評価したのは鈴木よね子であった。門玲子も、性の心の拠り所とする真葛の発想について「フロイトのリビドーを連想させて、興味深い」 としている。 経済思想については、戦前すでに白柳秀湖が「彗星的婦人の比較観察 女流経済論者工藤綾子」(1914年、『淑女画報』3-9)、および「天明の大飢饉と工藤綾子」(1934年、『伝記』2-1)を著しており、経済論者としての側面が注目されている。関民子は、未熟ではあるものの王権神授説や重商主義政策などによって体制の危機を克服しようという絶対君主制の志向を内包している点を評価している。 「人を倒してわれ富まん」の風潮は、現代の社会経済状況とも無関係ではない。「人よかれ、我もよかれ」という真葛の訴えは現代にも通底する願いであるとして新聞のコラムにも掲載された。
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