『大魔神』でのエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:22 UTC 版)
「森田富士郎」の記事における「『大魔神』でのエピソード」の解説
森田が「際立って想い入れが深い」とする『大魔神』は、京撮で「トリック」がどこまで出来るかという発想から作られたものだった。前年の『あしやからの飛行』(1964年、マイケル・アンダーソン監督)ではブルーバック合成が使われたが、この際のブルーバックはホリゾントを青く塗ったものが使われた。しかしこの手法は照明を均一に当てるのが難しく、色ムラが多く、照明の熱で青色が褪せてしまうなど問題が多かった。しかも米国UA社は東京現像所を信用せず、技術はすべて米国に持ち帰ってしまった。 森田はこれに忸怩たる思いを持っていたが、龍電社の龍敬一郎社長から「ハリウッドにブルースクリーンというものがある」と教えられ、また東京現像所の担当者から「一度我々でブルーバックをやってみよう」と声をかけられたことで、このブルーバックを個人的に研究。「半分遊び感覚で」、「おもちゃの戦車が京撮の正門から出てくる」というテストフィルムを撮影。これが成功し、撮影所でも評判となったことから、奥田久司が「この技術を生かそう」と『大魔神』を企画。成果を感じた森田は米国製の「ブルースクリーン」の購入を本社に持ちかけ、永田雅一社長も、当時1千万円近かったこの「ブルースクリーン」を京撮に導入してくれた。この「ブルースクリーン」は菱形に配列した190個のヨウ素電球100kWで11m×4.6mの透過性スクリーンを青く発色させる巨大なもので、森田の努力によるこの機材の導入が『大魔神』を成功させたのである。 森田は「『ゴジラ』や『ガメラ』などの現代劇のトリックは、ミネチャー(ミニチュア)に空気感が無く、絵葉書になってしまっていて、非常にリアリティに欠く」としていて、本編と特撮両方の兼任撮影を条件に『大魔神』の撮影を引き受けた。この『大魔神』で、森田は「撮影監督」のポジションを任じている。森田はこの『大魔神』で、「あくまで映像のジョイントを重視した」として、魔神の動きを2.5倍の高速度撮影、ミニチュアを1/2.5の縮尺にするなど、リアリティにこだわった設定は森田の計算に基づいたものだった。「ぬいぐるみの人が適当に動いて力強く見えてリアルな感じがするのはそのくらいです」と述べている。森田は黒田義之と二人で、スタッフの人選も行っている。 『大魔神』では建物の崩壊シーンなど、数か所に分散したスタッフのタイミングを全員で合わせるため、黒田監督と相談して、「司令塔」と呼ばれる「キュー出し」用の機材を用意した。これはスイッチを並べた操作盤で、崩壊のタイミングに合わせてスタッフの配置場所それぞれに置いたランプを点灯させ、これに合わせてワイヤーやロープを引っ張り建物を崩壊させた。撮影スピードが2.5倍なので、タイミングのずれも2.5倍となり、3作ともこの機材を使いながらNGが避けられなかった。京撮の装置部スタッフはそのたびに数日でミニチュアを作り直してくれたという。一年間で3本の特撮映画を撮影し、内2本は本編・特撮兼任で、しかも現像に都合20日かかるという初のブルーバックによる合成処理、さらに合間で『酔いどれ博士』(三隅研次監督)を撮影と、この間のスケジュール重圧に「心臓がおかしくなった」という。この『大魔神』のあと、円谷一から、黒田義之と共に映画『竹取物語』(脚本段階まで進んでいた)の特撮スタッフとして招かれていたが、円谷一の死去によって頓挫している。
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