『ゲームの規則』ほか
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「ミシェル・レリス」の記事における「『ゲームの規則』ほか」の解説
1948年に代表作『ゲームの規則』第1巻の『抹消』、1955年に第2巻の『軍装』が刊行された。この後、1966年に第3巻の『縫糸』、晩年の1976年に最後の第4巻『囁音』、没後の2003年にプレイヤード叢書として全4巻が刊行される。この一連の自伝的小説は、上述の『成熟の年齢』執筆の経緯におけるように、レリス独自の告白による自己探求であり、これは最晩年の小説『角笛と叫び』に至るまで継続されることになるが、第3巻執筆中の1957年5月に、レリスはフェノバルビタール剤を飲んで自殺を図った。未遂に終わったが、第3巻『縫糸』にはこの事件について、さらにはこの事件を通して夢や記憶を「縫糸」で縫合しようとする試みが描かれることになる。また、友人のアルベルト・ジャコメッティが描いた52枚の挿絵(エッチング)による『無名の生ける灰』(1961年刊行)も、この事件に言及した作品である。 マーグ財団出版社により1967年から1972年まで刊行された詩誌『レフェメール(フランス語版)(はかなさ)』に寄稿。編集委員はイヴ・ボヌフォワ、アンドレ・デュ・ブーシェ(フランス語版)、ルイ=ルネ・デ・フォレ、ガエタン・ピコン(フランス語版)、主な寄稿者はアルトー、バタイユ、ベケット、ブランショ、カフカらであった。 レリスは若い頃からマッソン、ピカソ、ジャコメッティのほか多くの画家と親しく、美術評論家としても知られるが、美術関連の著書を発表したのは晩年のことであり、特に深い関心を寄せていたのは、この3人の画家・彫刻家ほか、ヴィフレド・ラム、特に1966年に出会ったフランシス・ベーコンであった。邦訳は『ピカソ ジャコメッティ ベイコン』、『デュシャン ミロ マッソン ラム』として刊行されているが、これらは、著書や論文、雑誌の記事を編纂したものである。 1952年に『抹消(ゲームの規則 I)』および『軍装(ゲームの規則 II)』で批評家賞(フランス語版)を受賞したが、もともと栄誉を受けることを好まなかったレリスは、1980年、文化省によって授与される国家文学大賞(フランス語版)を拒否した。 レリスと義父カーンワイラーが収集した200点以上の作品(約90点の絵画、30点の彫刻、85点の素描やパピエ・コレ、約30点の民族学収集品)が国に寄贈され、1984年から85年にかけて国立近代美術館で展覧会が行われた。 1990年9月30日、エソンヌ県サン=ティレール(フランス語版)にて89歳で死去。ペール・ラシェーズ墓地に眠る。 没後、約1,000頁の日記が出版された。
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