「避諱欠画令」の導入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 21:55 UTC 版)
日本において天皇の諱を避ける避諱の慣習自体は古代よりあったが、中国で行われていた欠画の制度化は江戸時代後期になってから始まったとされる。なお、江戸時代の一時期に「日本国王」と称した経緯のある江戸幕府の征夷大将軍に関しては、欠画を行った痕跡をみることは出来ない。 幕末に武家伝奏を務めた三条実万が嘉永元年(1848年)に朝廷でいつから欠画の制度が始まったのかを調べて日記に書き残しており(「三条実万日記」嘉永元年8月2日条)、それによれば光格天皇の時代に桃園天皇の「遐(仁)」、後桃園天皇の「英(仁)」、後桜町天皇(上皇)の「智(子)」、光格天皇の「兼(仁)」の4字が欠画の対象になったのが始まりであるとしている。ただし、具体的な開始時期については明記していない。歴史学者の林大樹は光格天皇期の公卿・甘露寺篤長の日記から、それまでそのまま書かれていた「兼」の字が天明5年(1785年)正月以降に欠画になっているのに注目し、同年2月に九条尚実が摂政から関白に転じ、同月22日の詔書覆奏の儀をもってそれまで幼少を理由に文書に目を通すことがなかった光格天皇が直接文書に目を通すようになったことがきっかけに導入されたと考えた。勿論、これは当時15歳であった光格天皇自身の命令では無く「漢才の持主で唐物を好む」(柳原紀光『閑窓自語』)と評価された摂政(のち関白)九条尚実の発案であったと推測している。また、林はもう1つの導入の背景として、享保9年(1724年)に元摂政太政大臣である近衛家熙に『唐六典』の校訂を行い、没後に正式に出版されると広く公家社会の間で愛読されるようになったことがあったとしている。実際に天明年間よりも以前の明和年間には職事(蔵人)の間で天皇に見せる文書を作成する際には自主的に欠画を行っている事例が見られるようになっており、漢学を愛好していた九条尚実もそうした風潮の影響を受けたと考えられている。 避諱欠画令の導入は天皇権威の回復と尊王論の高まりの中で、摂家を中心とした公家社会が中国皇帝の要素を取り込んで天皇を中国皇帝のような権威を持った君主像に構築しようとした現れと考えられている。しかし、現実において尊王論の担い手になっていた国学者からしてみれば、こうした公家社会の方向性は国学の理想とは正反対の方向性と言えるものであり、屋代弘賢や塙保己一はこうした公家社会における中国皇帝の模倣を批判的に書き記している。
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