「避諱欠画令」の廃止
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避諱欠画令は朝廷とその関連部門が対象で、江戸幕府と言えども朝廷による発令そのものには異論を挟まなかったものの、京都所司代など朝廷と直接関わる部門以外には適用されていなかった。 ところが、文久3年(1863年)8月13日、江戸幕府は老中板倉勝静の名前で大名・旗本以下庶民に至るまで、当今(孝明天皇)の諱字を避けるように命じた。俗に「文久避諱令」と呼ばれるこの法令は所謂「文久の改革」の改革の一環として朝廷との関係改善を目的に出されたと考えられているが、今上天皇1代に限定され、なおかつ欠画の規定は盛り込まれてはいないということで朝廷の避諱欠画令とは性格が異なるものの、朝廷の地位の高まりの中で、天皇に対する避諱が全国民に対して適用されたという意味では画期的であった。 慶応2年(1866年)の12月に孝明天皇が崩御して、翌慶応3年(1867年)に儲宮睦仁親王が明治天皇として即位し、大政奉還から王政復古の大号令、戊辰戦争による江戸幕府の崩壊と事態が急変する中で、新天皇の即位儀礼が進められた。 そして、明治元年10月9日(1868年11月22日)、「明治の天皇避諱欠画令」―正式には「御諱御名ノ文字ヲ闕画セシム」(明治元年行政官布告第821)が発令される。これによって、仁孝天皇の「恵(仁)」、孝明天皇の「統(仁)」、明治天皇の「睦(仁)」の3字が欠画とすることが決定された。しかも、今回の対象は出版業界を含めた全国民を対象とするものであった。しかし、外務省からの問い合わせをきっかけとした左院における審議の結果、「起源不明瞭」を理由に明治5年1月27日(1872年3月6日)、「御名睦字及恵統二字闕画ニ及ハス」(明治5年太政官布告第24号)によって廃止されることになった。 元々、江戸時代後期の公家社会内部において天皇の権威を中国皇帝に匹敵させるべく考え出された避諱欠画令は、典拠も運用も曖昧で全国民に向けて適用できる性格のものではなかった。徳川慶喜の旧臣で廃止当時明治政府にいた渋沢栄一も避諱欠画令を公家社会の漢学旺盛の影響と見ており、「令条によれる由にて闕画せしめたるは、引拠を誤れるなり」と切り捨てている(『徳川慶喜公伝』巻3 第15章「禁裏御守衛総督就任」)。
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