「光復」から実際の独立に至る過程とは? わかりやすく解説

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「光復」から実際の独立に至る過程

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/14 06:30 UTC 版)

光復節 (韓国)」の記事における「「光復」から実際の独立に至る過程」の解説

詳細は「連合軍軍政期 (朝鮮史)」を参照 大韓民国韓国)では「朝鮮日本から主権独立)を取り戻した日」を1945年8月15日認識しているが、実際に朝鮮人独立国家主権行使できるうになるまでには、連合国占領行政下で3年にわたる紆余曲折があった。 朝鮮半島韓国併合1910年以来日本朝鮮総督府)の統治にあった。だが、1945年8月15日連合国発したポツダム宣言日本受諾して降伏することが発表されると(玉音放送)、一般朝鮮人にとってそれは第二次世界大戦の終結のみならず朝鮮日本による統治からの解放(「光復」)を意味するのであることが確実となった同日朝鮮総督府政務総監遠藤柳作と、朝鮮独立回復運動家呂運亨との会談がもたれ、日本側から条件では日本人の安全および財産保全朝鮮側からは政治犯釈放食糧確保条件がだされ、行政権朝鮮総督府から朝鮮側委譲されることで合意得られ同日発足朝鮮建国準備委員会委譲されることとなった翌日8月16日ラジオ放送で、行政権委譲発表、5千人程度公然集会で、呂運亨報告する朝鮮民族解放喜び沸き立ち各地日章旗降ろされ朝鮮王朝時代からの国旗である太極旗掲げられと言われている。政治犯多く共産主義者であった)の大半日本本土では10月10日まで釈放されなかったのに対し朝鮮半島ではその多く8月16日8月17日釈放され8月17日には朝鮮神宮焼き討ちされた。朝鮮の「解放」を受け、朝鮮半島さまざまな地域共産主義者による人民委員会自然発生的に結成されたとも言われている。 9月2日日本及び連合国各国降伏文書休戦協定)への調印行った連合国側ヤルタ会談に基づき朝鮮半島米英ソ4ヶ国による信託統治下におく計画持っていたが、結局北緯38度線を境としたアメリカ合衆国及びソビエト連邦南北分割占領至り朝鮮その後歴史大きな影響与えることになった米ソによる占領詳細は「連合軍軍政期 (朝鮮史)」を参照 米ソはもともと互いの軍を朝鮮進駐させる計画だったが、戦後処理を北緯38度線南北分担することなどを決めているにすぎなかった。しかし、アメリカソ連朝鮮全土占領することを恐れ急遽北緯38度線を境に半島南半部を米軍半島北半部をソ連軍分割占領することでソ連合意した米軍による日本本土占領ソ連軍による東欧諸国への占領比べると、朝鮮占領については米ソとも準備足りず両国軍が朝鮮の内情把握していなかったことや占領政策一貫しなかったことは、特に主要都市であるソウル大きな政治混乱生む一因となった。このことは、その後大韓民国および朝鮮民主主義人民共和国の建国による南北分断のみならず両国内のその後政治にまで大きな影響を及ぼすこととなったソ連軍アメリカ軍より早期朝鮮への進駐開始し8月24日咸鏡南道咸興到着したが、朝鮮半島北側中心都市平壌であることを知ると平壌後退した8月26日までにソ連軍平壌進駐完了しソ連側占領軍朝鮮総督府行政機関存続認めると布告したが、このことが朝鮮人不興を買い、また実際に行政機能失われていることを知ってこれをすぐに取り消した。これらの経緯ソ連軍南下が早すぎ、準備不足であったこと物語っている。 ソ連軍は在ソ朝鮮人ソ連生まれ朝鮮人投入して占領政策遂行しようとした。9月19日にはソ連領内退避していた金日成後の朝民主主義人民共和国主席)ら元・満州パルチザンたちが元山到着したが、彼らは各地分散しすぎたり地元共産主義者対立するなどして政治的主導権を得ることに失敗し、あらかじめソ連取り決めた役割を担うことができなかった。以降金日成権力基盤安定するまで38度線以北では激し権力闘争続いた9月7日アメリカ軍ソ連遅れて進駐開始し9月11日アメリカ占領軍38度線以南軍政布くことを宣言した朝鮮人当初日本からの解放者としてアメリカ軍進駐喜んだ。しかし、ソウルではすでに独立国家建設準備する組織誕生していたことも手伝ってアメリカ軍政宣言したことや、朝鮮総督府残した行政機構警察機構及びその人員を引き続き運用したことが大きな反発を生み、ソウル政治情勢乱戦模様呈した米ソによる分割占領固定化され、1948年になると、38度線以南ではアメリカによる軍政終了し8月15日大韓民国政府樹立宣言され同年9月9日38度線以北において朝鮮民主主義人民共和国の建国宣言された。これにより、今日まで続く朝鮮分断国家としての歴史が始まることとなった

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