「乳房よ永遠なれ」の映画化とその影響
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「中城ふみ子」の記事における「「乳房よ永遠なれ」の映画化とその影響」の解説
「乳房よ永遠なれ (映画)」も参照 女優であり、当時、映画監督にもその活躍の場を広げていた田中絹代は、「乳房よ永遠なれ」を読んで感動し、映画化を進める決心をした。田中絹代はこれまで監督として2本の映画『恋文』『月は上りぬ』を撮っていたが、田中絹代本人が映画化を決めたわけではなく、完成した映画も脚本を手掛けた成瀬巳喜男、小津安二郎の影響が強いものであった。しかし3本目の作品として選んだ「乳房よ永遠なれ」は、監督は田中絹代、脚本も田中澄江、そして主人公は当然、中城ふみ子(映画では下城ふみ子)と、女性が女性を撮るという当時としては画期的な映画として制作が始まった。 脚本の執筆を担当した田中澄江は、執筆にあたり「乳房よ永遠なれ」とともにふみ子の歌集「乳房喪失」、「花の原型」を読んだ。各作品のふみ子の姿から田中澄江はまず、常に彼女が問題としてきた日本的な結婚のあり方の問題がテーマのひとつとなっていたことを見た。そしてふみ子の作品とは、普遍的な女性の生活を基盤にしたものであると判断した。そして「乳房よ永遠なれ」の映画化について、田中絹代監督としては当時の日本映画では他にほとんど居なかった女性監督として自立を目指す意気込みとともに、「女の立場から女を描いてみたい」との思いがあった。 映画の中では、当時妻もの、母ものと言われた映画のように、自らを犠牲にして子どものために尽くし、夫からの冷たい扱いに耐え続ける女性像、いわば受動的な女性像も描かれてはいる。しかし映画の主題は積極的に男を求める、誰かのためにではなく自分のために生きようとするふみ子の姿であった。しかも映画におけるふみ子の性愛はロマンチックな姿ではなく肉感的に描かれ、積極的に男を求める姿勢にふさわしくあくまでふみ子主体のものであった。監督の田中絹代は、これまで俳優として男性社会の中で生き、死んでいく役を演じ続け、そのような中で一種の男性不信を抱くようになっていた。「女の立場から女を描いてみたい」との田中絹代の願いは、映画「乳房よ永遠なれ」において、主体的に性を楽しむ、自分のために生きる女性像として結実した。日本映画におけるこのような女性像は、「乳房よ永遠なれ」のふみ子が初めての例であった。 映画の主役であるふみ子は月丘夢路が演じた。これまで誰も演じたことが無いタイプの主役を演じることに月丘は強い意欲を見せ、札幌医科大学附属病院の病室を訪れ、ふみ子が亡くなったベッドに触れてみたりもした。封切された週は東京都内でトップの観客動員となり、地元にあたる札幌では通常1万5千人程度である観客動員数が6万を記録するなど、映画は興行的に成功を収めた。当時の映画の専門誌評にも、「ここに、はじめて日本にも女流監督の作った作品が現れたといって良い」との評がなされ、キネマ旬報の1955年ベストテン投票では16位となった。 一方、ふみ子の師の一人である野原水嶺は、映画で描かれたふみ子は現実よりも自由奔放かつエロチックであり、イメージに誤解が生まれる原因となったと語った。実際、映画上のふみ子像は現実のものとはかけ離れた面があった。また映画公開に絡んでふみ子の前夫・中城博が映画会社相手に詐欺事件を起こし、その上、北海道新聞にふみ子のことを批判する手記を載せた。更には全国的にふみ子に関する真偽不明の記事が報道されもして、家族や関係者はそれらに悩まされることになった。このような状況ではふみ子の短歌について、冷静な分析や鑑賞、評価を行うことは無理であり、情に絡んだ賞賛や批判が続くことになった。
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