「乳房よ永遠なれ」の映画化決定
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「乳房よ永遠なれ (映画)」の記事における「「乳房よ永遠なれ」の映画化決定」の解説
田中絹代の監督としての第2作は、1955年(昭和30年)1月に公開された「月は上りぬ」であった。「月は上りぬ」の脚本は小津安二郎のものであった。田中絹代の監督作品は第1作、第2作ともに木下惠介、成瀬巳喜男、小津安二郎といういわゆる巨匠の大きな影響下において制作された作品であった。しかし1955年11月公開の「乳房よ永遠なれ」は、田中絹代自らが題材を選び、脚本を担当することになった田中澄江、そして主人公は中城ふみ子と、女性が主人公である映画を、女性が脚本を作り、女性が監督を行って撮影するという、女性が女性を描く映画として作られた。また同作品は田中絹代が映画監督として自立したことを示す作品ともなった。 1954年8月3日、乳がんにより歌人の中城ふみ子は31歳の生涯を閉じた。中城ふみ子に大きな関心を持った田中絹代は映画化を決意した。田中絹代は戦前から女優として活躍する中で、男性によって幸せにも不幸にもなってしまう女性を演じ続けていく中で、一種の男性不信が身についていった。当時の映画は男性の映画監督が女性を描くという、男性中心の視点で作られていた。田中絹代は「女の立場から女を描いてみたい」と語っており、自分のために生きる女性像を映画の中で作り上げていくことを目指した。 脚本を担当することになった田中澄江は、若月彰が執筆した中城ふみ子論とルポルタージュである「乳房よ永遠なれ」、そして中城ふみ子の歌集である「乳房喪失」、「花の原型」を読み、執筆に取り掛かった。当初、田中澄江は中城ふみ子の怒り、嘆き、憎しみを剥き出しにするかのような短歌に反発を感じたが、読み進めていくうちに日本的な結婚の在り方の問題が見られることに気づいた。更に中城ふみ子の短歌は普遍的な女性の生活に基づいた作品であり、生の根源にも触れるものであることを感じ取り、脚本化する意味を見出した。 なお監督の田中絹代も、遺品の「乳房よ永遠なれ」に多くの赤線が引かれていることから本を読み込んでいたことが推測される。また田中絹代は原作者の若月彰とも会って話し合っている。
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