「乳房よ永遠なれ」の出版と波紋
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「中城ふみ子」の記事における「「乳房よ永遠なれ」の出版と波紋」の解説
1954年7月末、約20日間ふみ子のもとに滞在後、東京に戻った若月彰から酒井部長は報告を受けた。酒井は若月の不在を欠勤扱いで処理していた。当初酒井は若月からの報告を頼もしく聞いていた。しかし若月がふみ子と肉体関係を持ち、しかもそれを公表したいと考えていることを知り、絶句した。酒井は肉体関係を持ったこと自体を問題視したわけではない。そのことを若月が公表しようとしていることに、それはあまりに冷酷なのではないかと感じたのである。酒井は最後まで秘密にしておくべきであると思った。二人の間にしばらく沈黙の時が流れた後、結局酒井は若月の意向を受け入れる旨を伝えた。 若月は親しかった医者に偽の診断書を書いてもらい、会社をしばらく休んだ上で「乳房よ永遠なれ」を書きあげた。前述のように若月は当時、年少気鋭の文芸担当記者であり、「乳房よ永遠なれ」もその半分近くが中城ふみ子の作家、作品論となっていて、若月がふみ子のもとで過ごしたルポは残りの部分である。しかし作品全体のクライマックスはやはり若月とふみ子が愛を交わした場面であり、実際問題、読者の関心もその部分に集中する。 若月は出版に先立ち、帯広を訪れてふみ子の両親に原稿を見せている。ふみ子の両親はその内容に青ざめたと伝えられている。ふみ子の父、豊作は「乳房よ永遠なれ」の発売直前に急死する。この件の心労も原因したのではないかと言われている。「乳房よ永遠なれ」は約10万部が売れたといい、当時としてはベストセラーになった。後述のようにただでさえふみ子の短歌についての賛否は、離婚した死を待つ奔放な女性の作品という、作品そのものではなくふみ子の生きざまの是非の論議となりがちであった。そのような中で「乳房よ永遠なれ」が刊行され、しかもベストセラーとなった。もはや冷静な作品評価は困難となっていった。その上、更にそのような傾向を煽り立てるような事態が起こった。「乳房よ永遠なれ」の映画化であった。
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