「かのように」の哲学
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「ハンス・ファイヒンガー」の記事における「「かのように」の哲学」の解説
『かのようにの哲学(Die Philosophie des Als Ob)』におけるファイヒンガーの主張とは、人間は決して世界の根底的現実を知ることはできないので、思考の体系を構築し、それが現実に適合すると仮定している、すなわち、人間は「あたかも」世界が人の作ったモデルに適合するかのように振る舞っている、というものである。たとえば、物理学における陽子、電子、電磁波といった現象が直接観察されたことは一度もない。だが、科学はこれらが存在するかの如く想定しており、その仮定に基いてなされた考察によって新しくより良い構築物を生み出すのである。 ファイヒンガーは、自分には何人かの先駆者がいることを認めており、特にジェレミー・ベンサムの『虚構論(Theory of Fictions)』がその一つであるとされる(ただし、ファイヒンガーは晩年までベンサムの仕事の大部分について意識していなかった)。『かのようにの哲学』の英語版の序文において、ファイヒンガーは自らの「虚構主義の原理(Principle of Fictionalism)」を提示している。この原理は以下のように説明される。「ある思想が真理ではなく正確でもない、つまり虚偽であると分かっていたとしても、それだけでその思想が実践的に無価値で役に立たない、ということにはならない。なぜなら、このような思想は、理論的には無価値ではあるが、実践的には大きな重要性を備えているかもしれないからである」。また、ファイヒンガーは自らの哲学が懐疑主義の一種であることを否定している。というのも、懐疑主義は疑うことを主旨とするが、「かのように」の哲学は明らかな虚構を受け入れることを正当化し、合理的な回答がない問題へのプラグマティックかつ非合理的な解決方法だと認めているからである。 しかし、この哲学があてはまるのは科学に対してのみでなく、より広い範囲にも敷衍される。世界が明日も存在しているかどうかを確証することは決してできないが、我々は通常、そのまま何事もなく明日が来るだろうと想定する。個人心理学の祖・アルフレッド・アドラーは、ファイヒンガーの有用な虚構の理論に深く影響を受け、心理学的虚構という観念を自身の理論に取り入れ、虚構の最終目標(fictional final goal)という概念を考案した。 ファイヒンガーの「かのように」の哲学は、ジョージ・ケリー(英語版)のパーソナル・コンストラクト心理学(personal construct psychology)が基礎を置く中心的な前提の一つにもなっている。ケリーはファイヒンガーの名前を上げ、人間の構築した思考体系は客観的な現実の表象ではなく、有用な仮説とみなしたほうが適切であるという彼の理論から特に影響を受けたと述べている。以下はケリーの言葉である。「ファイヒンガーの『かのように』の哲学は心理学にとっても価値を有している。[…]ファイヒンガーは、自身が「かのようにの哲学」と呼ぶ哲学体系を生み出した。その思考体系では、神や現実はパラダイムとして表象されるのが最も適切だと考えられている。これは、人間の意識の領域において、神や現実が他のもの以上に不確かだと言っているわけではなく、人間が直面するあらゆる事態は仮説的に捉えられるのが最も適切である、という意味である。 フランク・カーモードの『終りの意識――虚構理論の研究(The Sense of an Ending)』(1967年、邦訳1991年)は、ファイヒンガーを有用なナラティヴ方法論家として位置づけた初期の文献である。カーモードによれば、「文学的虚構はファイヒンガーのカテゴリーにおける『意識的虚構(the consciously false)』に分類される。それは科学的仮説とは違って、証明したり反証したりする主題ではなく、操作的な有用性を失った際には無視されるべき対象なのである」。 その後、ジェイムズ・ヒルマンがファイヒンガーとアドラーの心理学的虚構の理論を発展させ、『癒やしの虚構(Healing Fiction)』を上梓した。同著はヒルマンの著作の中でも分かりやすいものであり、神経症や狂気の症例では、「意味を見通す」(同著p.110)のではなく、物事を文字通りに解釈してしまう傾向があることを明らかにしている。
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