「かてもの」執筆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 20:59 UTC 版)
莅戸善政は、治広の代になっても依然として藩政の中心にあって藩政改革の建て直しに尽力していたが、再び大飢饉が起きれば再び深刻な財政問題が生じることが予見できた。そこで莅戸は鷹山・治広と相談して再度このような事態に陥った場合の対応策を考えることとなった。 まず、義倉制度の再整備である。義倉制度は、治憲以前の米沢藩にも存在したが中絶し、治憲が再興したものである。しかし、天明の大飢饉で底を突いてしまっていた。そこで莅戸らは20年計画で全ての藩士・領民に対してその収入に応じて一定額の穀物や金銭を積み立てることを義務付けた。目標量に達するまでに23年かかったものの以後も新たな計画が立てられて幕末に至るまで継続された。 だが、飢饉が一度発生した場合にはそれが数年間にもわたる場合がある。これを憂慮した莅戸は普段から代用食となる動植物の調査・研究をする必要があると考えるようになった。そこで藩の侍医である矢尾板栄雪・江口元沢・水野道益の3名に食用となる動植物の研究を行わせた。彼らの報告に加えて本草学者の佐藤忠陵の意見も聴取した。寛政12年(1800年)、その成果を基に莅戸自らが赤湯温泉に籠って執筆した。しかし、その内容は一歩間違えれば食べた者の生命の危険すらあるために完成後更に矢尾板達とその安全性について再検討した。こうした過程を経て享和2年(1802年)、“糅物”の語より「かてもの」と命名されたこの書物が米沢藩より刊行されて、藩内に合わせて1575冊が頒布されたのである。
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