武田氏 安芸武田氏

武田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/21 08:38 UTC 版)

安芸武田氏

安芸武田氏
武田菱たけだびし
本姓 清和源氏義光流
家祖 武田氏信
種別 武家
士族
出身地 甲斐国[1]
主な根拠地 安芸国
周防国
若狭国ほか
著名な人物 武田元繁
武田光和
安国寺恵瓊
高杉晋作
支流、分家 安芸伴氏(武家
国重氏(武家)
小河内氏(武家)
祝氏(武家)
高杉氏(武家)
伊予武田氏(武家)など
凡例 / Category:日本の氏族

安芸武田氏の成立

安芸武田氏は5代武田信光の時代の承久3年(1221年)に起こった承久の乱の戦功によって鎌倉幕府より安芸守護に任じられたことから始まる。任命当初は守護代を派遣していたが、後に7代武田信時の時代に元寇に備えて安芸国に佐東銀山城を築き本格的な領土支配に乗り出すようになった。

元弘3年/正慶2年(1333年)鎌倉幕府が滅亡した時には10代武田信武は幕府の六波羅に味方しており、建武の親政において後醍醐天皇方となった甲斐守護・武田政義の後塵を拝した。しかし、南北朝時代に武田政義が南朝方であったのに対し、信武は北朝側の足利尊氏に属して戦功を上げ、甲斐国安芸国の両守護に任命され、信武の子の武田信成が甲斐守護、武田氏信が安芸守護を継承した。

この氏信が安芸武田氏の初代となる。ただし、近年の研究では信武が本来所持していた安芸守護と伊豆守の官途名を継承したのは氏信であったことから、甲斐武田氏の武田信成は庶子であり、安芸武田氏(後の若狭武田氏)の方が武田氏嫡流であったとされる[11]。しかし、信成の子である信春が信武が称したもう一つの官途名である陸奥守に任じられていることや後に甲斐自体が中央から離れて鎌倉府の管轄にされたことから、室町幕府と鎌倉府に権力が分かれていく過程で武田氏嫡流も室町幕府支配下(安芸)と鎌倉府支配下(甲斐)に分立するようになったとする別の説も出されている[12]。また、氏信は応安元年(1368年)に幕府によって守護職を解任され、以降は安芸守護職は今川氏細川氏等の足利一門が担ったが、安芸武田氏自体は銀山城を中心とした分郡守護[※ 7]として存続している。武田信繁まで分郡守護の家として足利将軍家に仕え、信繁の嫡男である武田信栄は、若狭守護となったのを機会に安芸から若狭に武田氏の本拠地を移した。

戦国時代の安芸武田氏

応仁の乱の最中の文明3年(1471年)1月、武田信繁の四男で代官として安芸分郡を治めていた武田元綱が兄である若狭武田氏の武田信賢から独立する。安芸武田氏と西軍の周防守護大内氏とは対立関係にあり、応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱でも東軍方について参戦したが、元綱は大内氏の圧力に屈し西軍に転じた。その後、若狭武田氏と和解したが、元綱の子の武田元繁も、足利義材を奉じた永正5年(1508年)の大内義興上洛に際してこれに属し、第11代将軍・足利義澄方であった若狭武田氏と決別した。しかし、永正12年(1515年)、大内義興が元繁を帰国させると尼子氏らと組んで大内氏に対抗した。

安芸武田氏9代武田信実の時代、天文10年(1541年)に大内氏の命を受けた毛利元就によって銀山城は落城し滅亡した。戦国時代末期から安土桃山時代にかけて毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊は、信実の従兄弟である武田信重の子にあたるとされ、安芸武田氏の中で唯一後世に著名な人物である。

また、光和の庶子である武田小三郎毛利氏に従い、以降代々仕えた。毛利氏の防長移封に従ったため、周防武田氏と称している。

毛利氏の家臣録である萩藩閥閲録によると、高杉氏が提出した家譜録では高杉晋作の祖先は備後国高杉城主の高杉小四郎春時とされ、安芸武田氏庶流の祝氏を名乗り、後に高杉と名字を変え、初代:春時 → 春光 → 春貞 → 就春 → 春俊 → 春信 → 春善 → 春明 → 春豊 → 春樹 → 春風(晋作)と続いた。

系譜

※点線は養子

甲斐武田氏
武田信武
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信成1武田氏信
 
 
 
 
 
 
 
 
甲斐武田氏
嫡流
2信在
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3信守信繁
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
4信繁信友
伊予武田氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信栄5信賢国信元網
 
 
 
 
 
 
 
 
国信
若狭武田氏
6元網
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7元繁小河内繁継
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8光和
 
 
 
伴繁清
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
9信実[※ 8]宗慶信重
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光信安国寺恵瓊

地下家の武田氏

廷臣の地下家正六位下極官とする院蔵人の武田氏は、安芸武田氏の武田信繁の後裔であるとされる。

(「地下家の一覧」参照)


伊予武田氏

武田信繁の弟(武田信賢の弟とも)で、金山城の留守居役であった武田信友が主君武田国信からの独立後、河野氏より客将として招かれた事から始まる。また、江戸時代前期、朝廷徳川将軍家諸侯の診療にあたった武田道安も、この伊予武田氏の流れをくむとされる。

道安(俗名・信重)の父は武田信治。 信治は伊予の河野通直に属していたが、1585年の豊臣秀吉四国征伐の際、毛利氏の小早川隆景に破れ、豊臣傘下となった。翌年からの九州征伐仙石秀久傘下の四国勢の一角として豊後国に渡ったが、征伐の前哨戦であった戸次川の戦いで豊臣方は大敗北し、仙石や長宗我部元親らと同様に信光も戦場離脱し逃走した。秀吉は敗戦に激怒し仙石家は所領を没収された。信治も罪を問われるのを恐れて高野山で蟄居したが、織田信雄の仲介で許され信雄に仕えた。

子の信重は1584年に産まれ、父の前述の経歴から地元にはいられなかったのであろう、京の建仁寺長老英甫永雄に師事して学んだ。永雄は若狭武田氏出身であり、同族の庇護を受けた形である。信重は医学を学んで浅野幸長に仕えたが、京でもその名は高くなり、天皇や徳川将軍、御三家なども診察する、当時の医者としての名声の頂点を極めた。

信重の子の信良と信成も高名な医師であり、子孫は代々医師として幕府や朝廷に勤めた。


注釈

  1. ^ 西川広平「南北朝期 安芸・甲斐武田家の成立過程について」は、武田信春は足利尊氏近臣としての功績から祖父の武田信武の死後に甲斐守護職に任じられたとして、信成の守護職在職の事実を否定している。
  2. ^ 穴山信君の嫡男で武田信玄の外孫、武田宗家の名跡を相続。
  3. ^ 徳川家康の五男で武田氏家臣・秋山虎泰の外孫、武田宗家・穴山家の名跡を相続。
  4. ^ 高家肝煎。陸奥守山藩主・松平頼亮の三男、徳川家康の六世の孫。
  5. ^ 旗本・遠山景高の五男。
  6. ^ 高家・織田長裕の子。
  7. ^ 一般的に守護は国単位(分国)で置かれるが、何らかの事情により単位(分郡)で置かれた場合に分郡守護と呼ばれる。役務自体は、通常の守護と同じである。ただし、近年の研究では分郡守護の存在を否定する説も出されている。
  8. ^ 若狭武田氏・武田元光の子。
  9. ^ 実は川島六郎兵衛吉惟弟川嶋徳左衛門某の嫡男
  10. ^ 実は川村伴五郎楠永の二男
  11. ^ 林正真の養子となる。
  12. ^ 木村周直の養子となる。
  13. ^ 実は先代武之の末弟。

出典

  1. ^ a b c d 『姓氏』(丹羽基二著作/樋口清之監修)および『旧事記』、『和名抄』より。
  2. ^ 百科事典マイペディア『武田氏』 - コトバンク
  3. ^ a b c 松田敬之 2015, p. 424.
  4. ^ 川合康『源平の内乱と公武政権』吉川弘文館〈日本の中世3〉、2009年。 
  5. ^ 守隨本店の歴史
  6. ^ 武田氏研究の研究史については、秋山敬「文献からみた武田氏研究」『武田氏研究』(第21号、1999年)、のちに増補して『甲斐武田氏と国人』(高志書院、2003年)に収録。文献目録には海老沼真治「武田氏関係研究文献目録 1983 - 2007年」平山優・丸島和洋編『戦国大名武田氏の権力と支配』(岩田書院、2008年)がある。
  7. ^ 網野善彦「鎌倉時代の甲斐国守護をめぐって」『武田氏研究』第8号、1991年。 
  8. ^ 柴辻俊六「戦国大名自筆文書の考察-武田信玄を事例として-」『山梨県史研究』5号、1997年、pp.79-100。 
  9. ^ 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館編集発行 『企画展示 大ニセモノ博覧会 ー贋造と模倣の文化史ー』 2015年3月10日、pp.50-57。
  10. ^ 西谷大編著 『見るだけで楽しめる! ニセモノ図鑑 贋造と模倣からみた文化史』 河出書房新社、2016年10月20日、pp.58-70、ISBN 978-4-309-27767-7
  11. ^ 黒田基樹「鎌倉期の武田氏」『地方史研究』211号、1988年。 /所収:木下聡 編『若狭武田氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世西国武士の研究〉、2016年。ISBN 978-4-86403-192-9 
  12. ^ 西川広平「南北朝期 安芸・甲斐武田家の成立過程について」『中央大学文学部 紀要』史学65、2020年。 /所収:西川広平 編『甲斐源氏一族』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究〉、2021年。ISBN 978-4-86403-398-5 
  13. ^ a b 福井県立若狭歴史博物館 編『若狭武田氏の誇り』2017年、8-10頁。 
  14. ^ 和氣俊行「松前氏祖武田信広の出自について : 従来の説の再検討と新しい可能性の提示」『国際日本学』第1巻、法政大学国際日本学研究所、2003年10月、49-73頁、doi:10.15002/00022559hdl:10114/00022559ISSN 1883-8596CRID 1390009224830454144 
  15. ^ 丸島和洋 著「甲斐に下向した奉公衆武田氏について」、戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 東国編』岩田書院、2017年。ISBN 978-4-86602-012-9 
  16. ^ a b c 徳島大学附属図書館蔵『蜂須賀家家臣成立書并系図
  17. ^ a b 高澤等『家紋の事典』東京堂出版、2008年。 
  18. ^ 武田家系図については近年系譜資料論の観点から諸系図の資料的性格が検討され、(西川広平 2008)、峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大編『中世武家系図の史料論』(下巻、2007年、高志書院)、(西川広平 2009)などがある。






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