平賀譲 生涯

平賀譲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/26 13:33 UTC 版)

生涯

生い立ち

1878年明治11年)3月8日東京府(現・東京都)生まれ。本籍広島県広島市。父・百左衛門は芸州藩士から維新政府に仕えた主計官。兄・徳太郎も海軍軍人(海兵18期、最終階級は海軍少将)。

横須賀鎮守府から海軍大学校など父の転勤にともなって神奈川小学校、戸部小学校、横須賀汐入小学校を経て、泰明小学校高等科に1年半ばかり在籍した。1890年、東京府尋常中学校(現・東京都立日比谷高等学校)入学。

1895年3月31日、東京府尋常中学校卒業。日清戦争のおり海軍兵学校を目指すも近視もあって体格検査で落第する。同年9月11日、第一高等学校工科に入学。

1898年7月8日、東京帝国大学工科大学造船学科(現・東京大学工学部システム創成学科)入学。同年7月10日、第一高等学校工科卒業。

1899年4月1日、母親、さらに父親も亡くしていたため、給費付きの海軍造船学生試験に応募し採用となる。

海軍造船官

1901年6月27日、海軍造船中技士(中尉相当)。同年7月10日、東京帝国大学工科大学造船学科首席卒業。同年7月17日、横須賀海軍造船廠に着任。

1903年9月28日、海軍造船大技士(大尉相当)。1904年1月15日、呉海軍工廠造船部々員。1905年1月27日、イギリス駐在を命じられる。同年2月8日、結婚[2]。同年2月28日、横浜発、アメリカ経由でイギリスへ向かう。同年4月7日 ロンドン着。同年10月1日、グリニッジ王立海軍大学校造船科修学開始。1908年6月30日、グリニッジ王立海軍大学校造船科卒業。同年10月1日、帰朝を命じられる。出発まで、イギリス・イタリア・フランスの諸造船所を見学する。同年12月12日、日本郵船丹波丸でロンドン発。1909年1月26日、横浜に帰着。同年2月3日、海軍艦政本部々員。同年9月25日、東京帝国大学工科大学講師。

同年10月1日、海軍造船少監(少佐相当)1912年8月5日 横須賀海軍工廠造船部々員。同年8月16日、東京帝国大学工科大学講師解嘱。同年8月16日、製図工場長、新造主任。戦艦「山城」、巡洋戦艦「比叡」、二等駆逐艦」を担当。

同年12月1日、海軍造船中監(中佐相当)。1913年6月10日、造船工場長兼任。1916年、4月7日、造船工場長兼務を免ぜらる。5月5日、海軍技術本部々員、造船監督官。海軍技術本部第四部に勤務、八八艦隊主力艦の基本計画を担当。5月18日、臨時海軍軍事調査会委員。

1917年 4月1日 海軍造船大監(大佐相当)1918年10月19日、東京帝国大学工科大学(後に工学部)教授兼任。1919年3月8日、文部大臣より工学博士の学位を受く。同年9月22日、法令改正により海軍造船大監あらため海軍造船大佐。1920年10月1日、海軍艦政本部再編、海軍技術本部々員あらため海軍艦政本部々員。同年12月1日、第四部長に山本開蔵就任に伴い、計画主任を命ぜらる。

1922年6月1日、海軍造船少将。海軍艦政本部出仕。引き続き第四部に勤務。同年7月1日、海軍艦政本部技術会議々員。1923年10月1日 計画主任を解任。同日、主としてワシントン条約下の列強建艦状況調査のため、欧米各国に出張を命ぜらる。同年11月22日 日本郵船ロンドン線の香取丸にて横浜発。1924年8月3日 横浜に帰着。以後約1年、不遇の日々を送る。同年12月18日、皇太子(即位前の昭和天皇)、東郷平八郎元帥海軍大将、財部彪海軍大臣、鈴木貫太郎井出謙治軍事参議官に対して講話を行い、皇太子から各種質問を受ける[3]1925年2月3日、海軍大臣に「欧米視察所見」を提出。同年6月3日 海軍技術研究所造船研究部長。同年12月7日 海軍技術研究所所長兼造船研究部長、艦政本部技術会議々員。1926年11月1日、造船研究部長の兼務を解かる。

同年12月1日、海軍造船中将。1928年4月10日、官制改正により、海軍艦政本部技術会議々員あらため海軍技術会議議員。同年8月 ワシントン海軍軍縮条約によって廃艦が決まった駆逐艦「夕立」を実験艦として海上曳航抵抗実験を実施。1929年7月31日、金剛代艦私案(設計X)を海軍技術会議に提出、計画主任藤本喜久雄の艦政本部案と対決。

予備役編入後

1931年3月20日、待命。同年3月31日、予備役(退職金7855円、恩給年俸3124円)。同年4月1日、三菱造船株式会社(後の三菱重工業株式会社)技術顧問。

1934年4月7日、友鶴事件により設置された「臨時艦艇性能調査会」の事務嘱託、艦艇復原性能改正対策を精力的に指導。同年6月7日 「臨時艦艇性能調査会」事務嘱託を解かる。

1935年3月22日、船体抵抗実験をまとめた論文はイギリス造船協会に評価され、外国人初の1934年度金牌授与を決定。同年4月1日 海軍艦政本部の造船業務嘱託、そのころから超弩級戦艦大和」(大和型戦艦)の設計に携わる。

戦艦大和

同年10月31日 第四艦隊事件により「臨時艦艇性能改善調査委員会」設置、海軍艦政本部嘱託として改正対策を強力に指導。翌11月、熔接制限を第四部長山本幹之助に建言。

1936年1月、平賀提案による「船体構造電気熔接使用方針」を制定。

東京帝国大学総長

1938年12月20日、東京帝国大学十三代総長に就任する。太平洋戦争時は陸軍には好意的な態度をとらなかった。東京帝大総長就任時、英語教育に力を入れたり、東条英機首相の大学卒業式参列には最後まで反対した。最終的には東条首相は式に参列し勇壮ながらも空疎な式辞を述べたのに対し、平賀の式辞は開戦以来の浮かれた気分を否定しアメリカの工業力や学力の軽視を戒め、「功を急ぐとは、自己の名利を急ぐの意味であって、これを大にしては国を誤り」と暗に軍部を批判するもので、すでに病魔に侵されていた平賀の声は、かぼそく淡淡としたものであった。[4]

1939年1月から翌2月にかけて、所謂「平賀粛学」が起こった。東大経済学部において土方成美筆頭の国家主義派と河合栄治郎筆頭の自由主義派の教授の対立が起こり、平賀譲は荒木貞夫文部大臣に喧嘩両成敗で両者の休職を具申した。それに対して、経済学部教授13人が舞出長五郎に辞表を提出し、結果的に13名が追放された。平賀は助教授以下の辞職撤回や教員の補充により1940年までに事態を収束させた。

1942年4月、平賀の尽力と支援により、東京帝国大学第二工学部(現・生産技術研究所)設置[5][6]。同年5月には平賀の尽力と支援により、興亜工業大学(現・千葉工業大学)が設置される。東大第二工学部と興亜工大は共に千葉県に位置し、盛んに交流が行われた。

同年11月1日、法令改正により、海軍造船中将あらため海軍技術中将となる。

同年12月20日、東京帝国大学総長に再任される。だが、すでに健康を極度に損ね、結核菌に喉頭を冒されていた。

逝去

1943年2月17日午後7時55分、東京帝国大学医学部附属病院嚥下性肺炎により64歳にて死去。

同年2月1日、保存のため、緒方知三郎(病理学教室教授)の執刀により解剖。現在、平賀の脳は東大医学部に保存されている。

同年2月23日、東京帝国大学安田講堂にて大学葬を挙行した。

墓は府中市多摩町の多磨霊園にある。東大総長現職のまま死に、大学葬まで執り行われたのは平賀のみである。


  1. ^ 『官報』第4858号「彙報 - 官吏薨去」1943年3月25日。
  2. ^ a b 平賀譲の略歴 - ウェイバックマシン(2011年2月1日アーカイブ分)
  3. ^ 宮内庁 編『昭和天皇実録 第四 自大正十三年至昭和二年』東京書籍株式会社、2015年3月、182頁。ISBN 978-4-487-74404-6 182頁『(大正十三年十二月)十八日 木曜日(略)(平賀譲の講話)午後、表内謁見所において海軍造船少将平賀譲より各国艦艇の型式及び艦材に関する講話を御聴取になる。元帥海軍大将東郷平八郎・海軍大臣財部彪・軍事参議官鈴木貫太郎・同井出謙治その他が陪聴する。講話終了後、一同に茶を賜い、席上、平賀に造船上のことについて種々御下問になる。』
  4. ^ a b 阿川弘之『軍艦長門の生涯・上』(新潮文庫、1982年) ISBN 4-10-111007-7 第二章 p28-p39
  5. ^ 福田武雄「生産技術研究所10年の歩み -附 第二工学部時代-」『生産研究』第11巻第6号、東京大学生産技術研究所、1959年6月1日、pp.136-143、ISSN 0037105X 
  6. ^ 立花隆 (2005年8月10日). “東大生が体験した「8月15日」 - 平賀総長が生んだ第二工学部”. 別冊 「東京帝国大学が敗れた日」. 文藝春秋WEB. 2014年8月29日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 故東京帝国大学総長男爵平賀譲勲章加授の件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113457200 
  8. ^ 『官報』第5475号「叙任及辞令」1901年10月1日。
  9. ^ 『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。
  10. ^ 『官報』第7701号「叙任及辞令」1909年3月2日。
  11. ^ 『官報』第159号「叙任及辞令」1913年2月12日。
  12. ^ 『官報』第1414号「叙任及辞令」1917年4月21日。
  13. ^ 『官報』第2648号「叙任及辞令」1921年5月31日。
  14. ^ 『官報』第4158号「叙任及辞令」1926年7月3日。
  15. ^ 『官報』第1317号「叙任及辞令」1931年5月23日。
  16. ^ 『官報』第3195号「叙任及辞令」1937年8月26日。
  17. ^ 『官報』第402号「叙任及辞令」1913年11月29日。
  18. ^ 『官報』第4051号「叙任及辞令」1926年2月27日。
  19. ^ 『官報』第3124号「叙任及辞令」1937年6月4日。
  20. ^ 『官報』第4829号「叙任及辞令」1943年2月19日。
  21. ^ 『官報』第4830号「叙任及辞令」1943年2月20日。
  22. ^ 『官報』第3641号「叙任及辞令」1924年10月10日。
  23. ^ 遠藤昭『戦艦大和』(サンケイ出版、1981年)
  24. ^ a b 山本善之「平賀譲先生を考える1」 公益社団法人日本船舶海洋工学会『らん』No.37 1997年10月 p67 - p69
  25. ^ 原正幹『米国戦時造船』丸善、1921
  26. ^ 花房子爵古希祝賀会『子爵花房義質君事略』1913年
  27. ^ 実吉純郎『人事興信録. 第15版 上』
  28. ^ 『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 日本図書センター、1987年10月5日発行、ISBN 4-8205-0693-5、831頁 - 832頁






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