ビートたけし 概要

ビートたけし

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/24 18:35 UTC 版)

概要

東京都足立区島根出身。東京都立足立高等学校を卒業し、明治大学工学部(現理工学部機械工学科を除籍(のちに特別卒業認定[2])。東京芸術大学大学院映像研究科特別教授(2005年 - 2008年)。

明石家さんまタモリと共に、日本の「お笑いBIG3」として知られる[3]

映画監督時や『平成教育委員会』などの番組では本名の「北野武」名義を用い、その他の番組、映画で出演するときは「ビートたけし」の芸名でタレント活動している。これに関しては、2010年5月9日放送の『平成教育委員会』にて、「アカデミックな場所では『北野武』または『マス北野』、芸人として出る時は『ビートたけし』で使い分けている」との旨を述べた。日本国外では基本的に本名である『Takeshi Kitano』だが、『Beat Takeshi Kitano』という、本名と芸名を併せた名義を使うこともある。また、絵画では「ビートたけし・北野武」名義を使用する。

落語立川流Bコースの一員で、高座名は「立川錦之助」[注 4]。近年は落語を口演する際、立川談春から一字もらい「立川梅春」を名乗っている。

来歴

生い立ち

塗装職人の父・北野菊次郎(1899年[注 5] - 1979年)と、母・北野さき(1904年[注 6] - 1999年)の四男として生まれる(幼少時に早逝した兄が一人いるため、実質は三男として育つ)。「竹のようにどんなものにも耐えてすくすく伸びてほしい」との願いから、「」と命名された。

平凡パンチ』1978年11月13日号のインタビュー記事では「浅草に生まれて、下町に育った」と語っており、1982年「週刊サンケイ」の小林信彦との対談でも「生まれたのは浅草(台東区)で、すぐ移って、物心ついた時には足立区にいたんです」と話している[5]

色白で細面、小柄だが俊敏で友人からは「ターチ」と渾名された。兄姉とは年が離れていたため、祖母の北野うしに非常に可愛がられて育った(家族構成は、「親族」節を参照)。母親からは厳しく接せられた。

高校時代まで

足立区立梅島第一小学校に入学。教育熱心だった母の薫陶が功を奏し、成績は優秀で、特に算数図画工作が得意だった。

小学校卒業後は、母親が進学校を希望したため、近隣の中学ではなく、遠く離れた足立区立第四中学校へ越境入学した。

中学校卒業後は東京都立足立高等学校に入学した。

小学校から中学校、高等学校にわたって野球部に所属(高校では軟式野球部)したが、高等学校在学中にヨネクラジムボクシングも習っていたという。

なお、演芸場時代は、漫才師の野球チーム「メダトーズ」に加入していた。また未成年時代に飲酒していたことも自身の著書で明かしている。

大学時代

1965年に高校を卒業し、母親の薦めで、明治大学工学部(後の理工学部)機械工学科に現役合格し入学した。同級生には星野仙一がいる[6]

しかし大学での生活には適応できず、五月病を患うようになり、大学2年の時には、家出同然に一人暮らしを始め、東京都新宿区の界隈で当ての無い日々を送るようになる。

学生運動にも参加したが熱心ではなく、ジャズに傾倒する。「LeftyCandy」や「新宿ACB(アシベ)」、名曲喫茶「風月堂」などに入り浸った。また、ジャズ喫茶のボーイもしていて、ジャズの見識は一部で有名であった。東京都新宿区にあるジャズ喫茶「ビザール」では、若松孝二小水一男らと知り合う。また「ビザール」のボーイの後輩に萩原朔美がいた。ヴィレッジヴァンガードで、遅番のボーイとして働いていた時は永山則夫が早番のボーイとして働いていた。「ジャズ・ビレッジ」の壁に書かれていた文章「強く生きよと母の声、死ねと教えし父の顔、何のあてなき人生なり」が心に残ったとのこと[注 7]

この頃は青春の葛藤期でもあり、友人の下宿に居候しアルバイト三昧だった。ジャズ喫茶のボーイ[7]以外に、菓子の計り売り[7]、実演販売員[7]、ビルの解体工[7]クラブのボーイ[7]東京国際空港での荷卸し[7]、タクシー運転手[7]、ガソリンスタンド店員[7]を転々とする。東京国際空港の荷役作業ではジャズ喫茶の常連客だった中上健次が先輩におり、共にガルーダ・インドネシア航空の荷役として働いていた[8]。後に通訳になろうと思い立ち、留学費用を稼ぐ目的でタクシーの運転手を務めるも半年で退社、ガソリンスタンドでアルバイトをした。この間、若松との縁で『新宿マッド』『腹貸し女』など、幾つかの若松プロ初期作品に端役ながら出演したり[注 8]、学生演劇に参加したが、ヴォードヴィルのような軽演劇で、舞台役者ではなく構成に携わっていた。

大学は140単位のうち106単位まで取得していたにもかかわらず、結局通学せずに除籍になった。その後、2004年9月7日には明治大学より「特別卒業認定証」(明治大学独自の制度であり、法的な大学卒業とは異なる)[注 9]及び知名度アップに貢献したとして「特別功労賞」を受賞。

前座時代

学生運動が収束に向かったこともあって、自身も去就を模索する必要に迫られた。芸能に興味はあったが、アングラ演劇には馴染めず、「理工系なので文学的なものはわからない、しかし演芸なら自分にも理解できるだろう[9]」という理由で、いつしか芸人を志望するようになった。ただ、子供の勉学に厳しく大学にまで入らせて芸人の道を志した息子に、母は怒り嘆き、子供の頃から厳しい勉強を強いられて窮屈な思いをしていた武は、これに猛反発。北野家においても、近所の体裁を考えて「芸人を目指した北野家の武」という存在は無かった事になっていた。

1972年夏、東京都台東区浅草にあるストリップ劇場の浅草フランス座で、芸人見習い志願としてエレベーターボーイを始める。当時、たけしと思しき人物を見た井上ひさしは「不機嫌そうな青年[10]」と、その印象を述べている。やがて、同劇場の経営者兼座長であった深見千三郎に師事し、前座芸人・北千太としてコント(軽演劇)を学ぶ。初舞台は、痴漢のコント。幕間コントに出演して腕を磨き、芸人としてタップダンスの修業にも励む。座員の多くが深見を近付き難い存在として見ていたが、たけしは物怖じしなかったため、深見から気に入られた。ただ、深見は一般の場所でも唐突にギャグ(ボケ)を連発、間髪入れずに師を即興で罵倒という技術を仕込まれ、この特異な芸の仕込みに北野は深見に四六時中振り回される形となり芸を習得、模索する事になる。この指導もあり、舞台ではアドリブを駆使し、言葉の拾い方に独特の斬新さがあったため一目置かれ、後に誕生する漫才コンビ・ツービート独自の芸風の基礎として取り入れられ漫才ブームで駆使し一気に開花する。当時は、フランス座の四畳間の屋根裏部屋で寝泊りをしていた。

長じて、フランス座の新人芸人とコントコンビを組むことを考える。舞台(コント)が活動の主軸を旨としていた深見は、漫才での活動を望んだ弟子の北野を即刻破門(後に解除)[注 10]、漫才を主軸に活動の場を放送媒体に移す。

ツービート結成

コントでの芸能界デビューを模索した一方、フランス座に出入りしていた2年先輩の兼子二郎(のちのビートきよし)から漫才コンビを組むよう誘いを受けた。コントにこだわったたけしは漫才に慎重だったが、当時フランス座は経営難で、給料の支払いすら事欠くようになっていたことや、コントコンビを組む予定だった相方の病気もあり、また、背広一つで稼ぐことができる漫才に魅力を感じていたことから、松鶴家千代若・千代菊門下の漫才コンビ「松鶴家二郎・次郎」の次郎として舞台に上がることを了承した。深見からは引き続きフランス座の屋根裏部屋で住むことが許された。

当初は兼子がツッコミの正統派の掛合い漫才で全く芽が出ず、フランス座にいた頃よりも貧窮した。きよしが一時コロムビア・ライトの付き人をして生活を凌いでいたため、その縁で空たかし・きよしコロムビア・トップ・ライトの一門は皆「青空」の家号を名乗るが、片方だけが弟子なので「空」だけとなった)と名乗って興行に出たこともあった。また、当時はツッコミ担当で、ネタはきよしが作成していた。東京都外のキャバレー周りの営業なども行ったが、たけしは酔客相手の仕事を嫌い、出番をすっぽかしたり、酩酊して舞台に上がることが多かった。また店を誹謗したり客やホステスに喧嘩を吹っ掛けため度々舞台から降ろされた。そのため兼子は場繋ぎに使う奇術ネタを用意していたという。そしてこの頃から「暴走ネタ・危険ネタ」へシフトしていき、ボケとツッコミの役割も入れ替わった。

紆余曲折の後、2人はコンビ名を「ツービート」へと変更し、たけしは「ビートたけし」、兼子は「ビートきよし」を芸名とした。

その頃、大阪府で頭角を現して来たB&Bのスタイルに触発され、ツービートもスピードを早めて喋りまくるスタイルへ変貌した。それに呼応するように、服装もタキシード蝶ネクタイからアイビー・ルックへ変更することで、古臭い漫才師の様式から脱却を図った。当初ツービートは、代演で松竹演芸場の舞台に上がっていたが、支配人に認められてからは出演回数も安定するようになる。毒舌の限りを尽くした掟破りのたけしのツッコミネタもさることながら、ボーイズグループの楽器を拝借して現れたり、座布団の上に座って漫才を行ったり、型破りな舞台が多いため、他の芸人が観に行ってしまうので「ツービートが漫才を始めると楽屋が空っぽになる」と評判になった。

漫才ブームまで

演芸場での人気とは裏腹に、その破壊的な芸風は一部の関係者に受け入れられず激しい抑圧を受け、漫才協団から脱退を求める声すら起きたという[11]。1976年協団が主催するNHK新人漫才コンクールにツービートは3年連続で出場したが最優秀賞を獲得することは出来なかった。

1978年、東京都新宿区高田馬場にある芳林堂書店前で持ちネタの全てを披露する「マラソン漫才・ツービート・ギャグ・デスマッチ」なる漫才ライブを開催したが、この企画をした高信太郎との繋がりでたけしも、高平哲郎赤塚不二夫、タモリなどと一時期交友関係を持った。その後、「酒を飲んで軽いジョークを言いあったりする、あのシャレた笑い」が肌に合わず、自ずと距離を置くこととなった。

1979年、女流漫才師「ミキ&ミチ」の内海ミキと結婚。

9月12日、父の菊次郎が死去[12]

11月、『花王名人劇場』(関西テレビ 企画:澤田隆治)において、人気落語家・月の家円鏡(8代目・橘家圓蔵)の共演者に抜擢される。古典派から「邪道」と言われた円鏡と、「邪道漫才師」ツービートを競演させ、「円鏡 VS ツービート」と銘打って放送されたこの企画が好感触を得たことで、「花王名人劇場」での「激突!漫才新幹線」制作への布石となり、後の漫才ブームへ繋がった。

漫才ブーム

1980年からの漫才ブームでは、ツービートは毒舌漫才と毒舌ネタを売り物に、B&Bやザ・ぼんち等と共に一躍知名度を上げた。

速射砲さながらに喋りまくるたけしのスタイルや、金属バット殺人事件深川通り魔殺人事件といった時事性の高い話題をいち早くギャグに取り入れる「不謹慎ネタ」は「残酷ギャグ」等と批判を受けることもあったが、たけしは「たかが漫才師の言う事に腹を立てるバカ」と言ってのけた。日本船舶振興会の広告を皮肉って作られた「注意一秒ケガ一生、車に飛び込め元気な子」「気をつけよう、ブスが痴漢を待っている」「寝る前にちゃんと絞めよう親の首」「赤信号みんなで渡れば怖くない」「少年よ大志を抱け。老人よ墓石を抱け」等の一連の標語ネタは「毒ガス標語」と言われ、ブーム初期の定番ネタとなった。

1980年6月、ネタ本『ツービートのわッ毒ガスだ』を発刊し、年末までに約85万部の売上となったが、当初事務所側はせいぜい3万部程度の売り上げと見込み、印税全額を2人が受け取る契約を結んでいたため、大金が転がり込んだという。

レオタードハイレグを擬した「コマネチ」

この時期に、ツービートとして出演していた『スター爆笑座』(TBS) の初代司会であったせんだみつおと楽屋で雑談中に、たけしの代表的ギャグとして知られる「コマネチ!」のギャグが生まれた[13]

1980年10月、昼の帯番組『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ)で、ツービートは火曜日のレギュラーとなった。1982年10月、ブームの終焉と共に番組も終了したが、最終回でたけしは客に対し「何でもゲラゲラ笑いやがって! 本当はお前らみたいな客、大っ嫌いだったんだよ!」と語った(なお、フジテレビからオファーのあった後番組の司会をたけしは断り、代わりに『森田一義アワー 笑っていいとも!』が開始された)。

1982年の夏にはブームは完全に終息し、たけしは「ツービートのたけし」としてではなく「タレント・ビートたけし」として、この頃以降は、単独で司会をする番組を多く持つようになるなどしていった。

漫才ブーム以後

漫才ブームを生き残ったたけしは、自身のスタイルを大きく転換させる。毒舌家というパブリックイメージはそのままに、ネタに依存する消耗度の高い喋りを捨て、パーソナリティを軸とした芸風に移行していく。

1981年元旦からニッポン放送NRN系のラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』、同年5月からフジテレビ系の『オレたちひょうきん族』がそれぞれ開始される。

1982年から1984年にかけて、番組出演中に弟子志願者(正式な門下は取らない主義の為「ボーヤ」と呼ばれる)が押しかけ、相当の数が集まった事(たけし軍団)から、集団で行うバラエティを模索。日本テレビ『スーパージョッキー』、TBS『笑ってポン!』等が始まった。また、博識が評価されて、毎日放送『世界まるごとHOWマッチ』等で文化人的な出演要請も増えた。

  • スーパージョッキー(日本テレビ)
  • 天才・たけしの元気が出るテレビ!!(日本テレビ)
  • ビートたけしのスポーツ大将(テレビ朝日
  • 痛快なりゆき番組 風雲!たけし城 (TBS)
  • OH!たけし(日本テレビ)
  • 世界まるごとHOWマッチ(毎日放送
  • オレたちひょうきん族(フジテレビ)
  • オールナイトニッポン(ニッポン放送)

上記は、1985年当時のレギュラー番組すべてであるが、このうち日本テレビ、テレビ朝日、TBS、フジテレビの20時台番組ですべて最高視聴率をマークした。なお、『たけし城』『元気TV』『スポーツ大将』は、全て実質ビートたけし本人の企画・構成によるものである。

その他、放送以外に歌手としてのレコードリリースとライブ活動、文学小説の出版、ファミリーコンピュータのゲーム企画も行った。この頃より、タモリ・明石家さんまと共に、「日本のお笑いタレントBIG3」と称されることとなった。

1986年12月、たけしが交際していた女性へ、講談社週刊誌FRIDAY」の記者が強引な取材によって傷害を与えた。その報復として北野はたけし軍団の一部の軍団員とともにFRIDAYの編集部を襲撃し、住居侵入罪器物損壊罪暴行罪の容疑で警察に現行犯逮捕された。この事件によって写真週刊誌の行き過ぎた取材が問題視され、当時の内閣官房長官が言及するなどの社会現象になった。

近年は漫才を披露する事は少なくなったが、かつて『北野ファンクラブ』では島田洋七とのコンビ「B&Beat」で、稀に弟子のライブに飛び入りで相方ビートきよしとの「ツービート」として、漫才を披露することがある[14]

2014年10月27日、約30年ぶりとなる単独ライブを渋谷のCBGKシブゲキ!!にて開催。ライブのタイトルは「たけしが毎週ニュースキャスターの楽屋で、朝ズバッ!なんかで使ったパネルを勝手に拝借して、イタズラ書きをしてはニュースキャスター後のS1TBSに来ていた、爆笑問題田中の楽屋にそっと置いていたパネルが溜まったのでテレビでお披露目しようとしたら、何処の局からも相手されなくて、仕方なくLIVEでお披露目することになった、たけし的スライドショーなLIVE」[15]。約200席のプレミアライブは約1分で即完売となった[16]

映画監督としての経歴

『その男、凶暴につき』(1989年)は、監督:深作欣二 主演:ビートたけしで映画化を予定し、配給の松竹は両者の間で交渉を進めたが、スケジュールや条件で合致せず、深作が辞退した。そこで松竹は人物的魅力と話題性から、たけし(以下、映画の項目では映画監督での活動名(本名)での「北野」で表記)に監督を依頼したところ、テレビの仕事と両立させることを前提として承諾。1週間おきの撮影という珍しい形態が採用された。[17]映画監督・北野武としてのデビュー作『その男、凶暴につき』は、1989年に予定通り公開された。この時のことを後年関根潤三の著書の推薦文で「(映画監督について)あんなに大変な仕事はあるのかと思った。」と述べている。

その後、1990年に公開された監督2作目となる『3-4X10月』からは脚本も兼任し、映画監督としての本格的な活動を開始する。興行的成功は中々出なかったが、黒澤明淀川長治蓮實重彦といった日本映画の重鎮からは作風を高く評価される。また、1993年の『ソナチネ』ではカンヌ国際映画祭「ある視点」部門ロンドン映画祭に招待され、海外でも高い評価を獲得する。

1996年には『キッズ・リターン』を発表。バイク事故からの復活を印象付け、カンヌ国際映画祭監督週間部門にも招待される。

1997年、映画『HANA-BI』が、第54回ヴェネツィア国際映画祭で日本作品として40年ぶりとなる金獅子賞を受賞した。発表直後、たけしは「異分野出身者でも大きな賞を取れると示すことができ、これから映画を目指す者に刺激になったと思う」と語った。授賞式では「今度またイタリアと組んでどこか攻めよう」「Let's try again with Italia and go to some country to war」と日英両語でスピーチ[18]。帰国時の記者会見で、現地の土産物屋で購入した金獅子像のミニチュア(約280円)を披露して、笑いをとった。

第52回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に正式参加した映画『菊次郎の夏』で、約5分間のスタンディングオベーションを受けた。

2003年には『座頭市』が第60回ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門に出品され、監督賞にあたる銀獅子賞を受賞。更に北米最大の映画祭であるトロント国際映画祭でも最高賞にあたる観客賞を日本映画として初めて受賞し、北野映画としては異例となる国内外でのヒットを記録した。

2005年4月、フランスの『カイエ・デュ・シネマ』創刊600号記念号の特別編集長を務める。カイエ・デュ・シネマは300号から100号毎に映画人を編集長に招いて記念号を発行しており、過去に記念号の編集長を務めた映画監督は、ジャン=リュック・ゴダール[注 11](300号)、ヴィム・ヴェンダース(400号)、マーチン・スコセッシ(500号)などがいる。

2005年4月、東京芸術大学で新設された大学院映像研究科の特別教授および映画専攻長に就任(〜2008年。なお、監督領域の教授は北野と黒沢清の2名)。北野大も淑徳大学教授であったので、兄弟で教授となった。

2007年5月、カンヌ国際映画祭60周年特別記念企画「To Each His Own Cinema」(それぞれのシネマ)に世界5大陸25ヶ国から選出された35名の著名な映画監督の中で唯一の日本人として名を連ねた。

2007年8月、第64回ヴェネツィア国際映画祭にて、たけしの映画監督作『監督・ばんざい!』に基づき「監督・ばんざい!賞」が新設され、表彰式に出席した。

2008年6月19日、第30回モスクワ国際映画祭で「特別功労賞」 (Life-time Achievement Award) を受賞。2003年の新藤兼人に次ぐ2人目の日本人受賞者となった。20日の会見では「ロシアの人は自分(北野)を過大評価している」「数々の芸術家が出ているロシアで表彰されるのは恥ずかしい」と語った。

2010年3月9日、フランス芸術文化勲章の一つであるコマンドゥール章を受章。13日の帰国会見では勲章の披露の前に、自身が作った「バンクーバー」と書かれた金メダルを出すボケを行い、笑いをとった。

2011年秋公開予定だった『アウトレイジ2』について「宮城県」でクランクインの準備をしていたら「東日本大震災」に遭遇しロケが取り止めとなり「6000万円以上損害が出た」と語っている[19]。なお『アウトレイジ2』は、舞台を神戸市に移して『アウトレイジ ビヨンド』として、2012年10月6日に公開。

2016年、アカデミー賞を主催する米映画芸術科学アカデミーよりライター部門での会員候補に選定された。

映画監督としての特徴

『HANA-BI』が第54回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞
第53回カンヌ国際映画祭(2000年度)にて

たけしは幼少期ほとんど映画を観ておらず、黒澤明との対談では『力道山物語』『二等兵物語』『鉄道員』しか観たことがないと話している。また、黒澤は北野の映画作品を(作中に)余計なものがないから好きだと評価している。

撮影に関するエピソード

大森南朋はたけしについて「説明が無いまま始まる恐怖がいつもあります」と話している。

たけしの作品『アウトレイジ 最終章』の撮影中、大森は撮影当日、現場でマシンガンが傘に刺さっているのを知ったので「そういうことなのか」と思い、たけしがいない間に傘越しに撃つ練習をした。ところが、そのエピソードを聞いていた北野は「おいらは漫才出身だからね」と涼しい顔をしており、さらに「だから、テストを重ねた方が役者に芝居が入っていくという道理がわからない。それに漫才は一発目が勝負で、やればやるほどネタを知っている客は笑わなくなるから、北野組でもその新鮮さを求めるやり方を踏襲して、特に指示も出さずにいきなり『どうぞ(やってください)』って言うんですよ(笑)」と笑った。大杉漣はその緊張感ある北野映画の撮影現場で貧血を起こして倒れたことがある[20]

北野映画の特徴

北野映画の特徴として以下のようなものが挙げられている[21]

  • 青を基調とした映像「キタノブルー」。
  • 歩くシーンが多い。
  • セリフが少ない(逆に言えば必要最低限のセリフで映画を成立させている)。
  • 四コマ漫画の連続性。
  • 瞬発的殺戮・秒殺・加減のない暴力描写のリアリズム。観客が想像する前に事が行われる恐怖。
  • たけしの口癖である「馬鹿野郎」もしくは「この野郎」というセリフが、映画内で多用されている。
  • 緊張の中に突如織り込まれるギャグ。

自らの映画作品に暴力団が登場することについては「暴力団を賛美した表現をしたことはなく、拳銃を使った人間は幸せになれないようなシナリオにしている」と述べている[22]

キタノブルー

「北野映画」のビジュアル面での特徴として、画面全体のトーン、小道具の色などに青が頻繁に使われるというものがあり、気品があるとして「キタノブルー」と呼ばれる[23]。特に『ソナチネ』など中盤までの作品において顕著で、ヨーロッパで高い評価を得た。突然の雨により画面が青一色になったのがきっかけとされる。極力余計な色を使用しないようにしていたことから、以降青を意識するようになったという[24][注 12]。ただし『Dolls』からはキタノブルーの傾向は薄れている。

また、このキタノブルーにはジャン・ポール・ベルモンド主演の『いぬ』にアラン・ドロン主演の『サムライ』や『仁義』、リノ・ヴァンチュラ主演の『ギャング』『影の軍隊』などで知られるフランス映画の巨匠ジャン=ピエール・メルヴィルの影響を強く受けており、とりわけ『サムライ』以降の「メルヴィル・ブルー」が強い後期の作品の影響が濃い。「メルヴィル・ブルー」以外にも歩くシーンが多いやセリフが少ない、唐突に訪れるリアルな暴力や死、省略演出の多用もメルヴィルからの影響を強く受けており[25][26]、自著でも特に『サムライ』を絶賛している[27]

メルヴィル作品『ギャング』のリメイク版である『マルセイユの決着』が2008年に日本で公開された際のプレスシートには、たけしによるメルヴィルを絶賛する旨のコメントが掲載された。

2016年10月にレジオン・ドヌール勲章の「オフィシエ」を受章した際、授与式で『サムライ』の主演のアラン・ドロンの息子のアントニー・ドロンと対面している[28]

映画観

「究極の映画とは、10枚の写真だけで構成される映画であり、回ってるフィルムをピタッと止めたときに、2時間の映画の中の何十万というコマの中の任意の1コマが美しいのが理想だと思う。例えば女性のヌードを撮影するってのも、ただ裸の女が出てるだけではなく、ストーリーの中で女が脱いでいくというものであり、グラビアは映画の原型みたいなものだと思う」と語っている[29]。また、「たった1枚の絵画だけで20分も30分もその場に人を釘付けにできるのだとしたら、映画も少ないカットでそういう事ができるのを感覚的に目標にしている」と語っている[30]

自らが俳優として数々の作品に出演する際の姿勢として、撮影方針に口出ししないようにしているため、監督を務める際にも撮影方針に意見をする俳優は嫌いだと発言している[31]。また、有名俳優でも撮影後気に入らないと出演シーンを編集でカットすることもある一方で、大杉漣や寺島進など北野作品に多く出演したことで名前が知られた俳優もいる。

映画音楽は『Dolls』まで、久石譲が長期にわたって担当していたが、その後は梶浦由記鈴木慶一を起用している。水道橋博士によると、久石の起用を止めたのは、映画そのものではなく、音楽が評価されてしまったからだと語っている[32]

お笑いタレントと映画監督

フランスと日本の文化観の違いとして「芸人という立場が映画監督としては悪影響を及ぼす、なんて気はなくて、フランス人の見方は、もっと才能があるんだっていう。この人はまだいろんなことがやれるんだって感じがあって。だからギャング映画撮っても問題ないし、バカバカしいことをやってもそれはそれとして見てくれる。映画は映画、バラエティはバラエティって分けてくれるんで、ありがたい。気が楽になった」とコメントしている。

「日本は漫才師が映画撮った、みたいな雰囲気があって、松本人志が映画撮ると、“かつて映画を撮ったお笑い人”の中に必ず俺が入っている」と、異業種の人間に対する偏見が強い日本の見方には苦言を呈している[33]。また、海外メディアが(監督・北野武としての)彼にインタビュー取材を行った際に、彼が映画製作に使う専用のオフィスへ海外メディアクルーを招き、オフィス内部の紹介やインタビューに応じる姿があった。なお、日本のメディアに対してはオフィスは基本的に非公開であったが、世界各国のメディアによるドキュメンタリーを扱った日本のテレビ番組で放送された際に、初めて明かされている。

北野武が選ぶ好きな映画10本

  1. 天井桟敷の人々 Children of Paradise(1945年、監督:マルセル・カルネ
  2. 2001年宇宙の旅 2001:A Space Odyssey(1968年、監督:スタンリー・キューブリック
  3. 時計じかけのオレンジ A Clockwork Orange(1971年、監督:スタンリー・キューブリック)
  4. 七人の侍(1954年、監督:黒澤明)
  5. L.A.大捜査線/狼たちの街 To Live and Die in L.A.(1985年、監督:ウィリアム・フリードキン
  6. ワイルド・アット・ハート Wild at Heart(1990年、監督:デヴィッド・リンチ
  7. ガルシアの首 Bring Me the Head of Alfredo Garcia(1974年、監督:サム・ペキンパー
  8. ダークマン Darkman(1990年、監督:サム・ライミ
  9. 狂い咲きサンダーロード(1980年、監督:石井聰亙
  10. 鉄道員 The Railroad Man(1956年、監督:ピエトロ・ジェルミ

注釈

  1. ^ 主にたけし軍団。
  2. ^ 主に明石家さんま、島田紳助。
  3. ^ 主にタモリ、和田アキ子など。
  4. ^ たけしがファンであった初代中村錦之助に因む。
  5. ^ 旧姓正端菊次郎 浅草生まれ。1925年8月叔母北野うしと養子縁組、北野姓になる。同月さきと結婚[4]
  6. ^ 旧姓小宮さき 千葉県市原市五井生。1923年1月に北野うしの実子である徳次郎と結婚。同年8月徳次郎急逝。1925年8月、うしと養子縁組した菊次郎と結婚[4]
  7. ^ 後年、これに続けて「死に場所探して生きるもよし」と加えた詞を作り、『死んだ犬』として発表した(作曲:泉谷しげる
  8. ^ 小水は『ほしをつぐもの』(1990年)で、若松は『エロティックな関係』(1992年)で、再びたけしを撮った
  9. ^ 100単位以上を取得しながら、何らかの理由で通学できなくなった人物に与える制度。
  10. ^ これにより芸人としての師弟関係は途絶するが、個人的な付き合いは継続していた。また、引き続き、フランス座の屋根裏部屋に住むことが許される。深見の下に立ち寄った北野に対して「タケ手前、馬鹿野郎、何しに来やがった! ラーメンでも食っていくか?」と粗雑ながら甲斐甲斐しくもてなされていた。
  11. ^ 「ここ4、5年、私が素晴らしいと思っている、北野武の映画があります。『HANA-BI』という作品です。私が『HANA-BI』を好きなのは、それが日本映画だからではなく、普遍的な映画だからです。そこに登場するほとんどの人物たちが一重瞼の細い目をしていることに気づかないほど、普遍的な映画だと思います」と言及された事がある(『週刊読書人』 2002年11月22日号)
  12. ^ 柳島撮影監督、高屋照明監督へのインタビュー
  13. ^ これは風雲たけし城で殿の役をやったことに由来する。
  14. ^ 特に毎年、フジテレビ系列で放送されている、FNS27時間テレビが顕著に出ている。
  15. ^ もともと母・さきがうしの実子(北野徳次郎)と結婚して北野家に入ったが夫が夭折(1923年8月18日死亡)、その後うしがさきの後添いに甥だった正端菊次郎を連れて結婚にあたって、菊次郎がうしと養子縁組(1925年8月17日)を行ったため[4]
  16. ^ 調査対象は日本の人口バランスに合わせた比率の10代〜70代(2000人)で、全国のあなたの街に住みます芸人による街頭調査およびリサーチ会社による調査を行った。ノミネートされた人物の中には戦国武将などの歴史的人物も含む。
  17. ^ 正確には、前日の『北野ファンクラブ』のEDトークに飛び入り出演している
  18. ^ 退院時の会見でも着用していたため、信仰に目覚めたのかと話題になった。会見での正確な発言は「これねえ、原節子さんっていう人の、女優さんの、友達の尼さんが、観音様彫ってくれたんですよ。そんで、いろいろ書いてくれて、ほいでみんな心配してるってんで、これしてたら気持ちいいよって言うからやってるんですけど」
  19. ^ 1991秋では、回答者として出演していた。実兄と共演。
  20. ^ 1992年 - 1996年・2017年 - 2019年は総合司会として参加、その他の年はゲストや中継でのゲスト出演
  21. ^ 途中で歌うタイミングがずれるハプニングもあった。
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  134. ^ “世界のキタノにまた新たな称号 仏最高勲章、現地25日に叙勲式”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2016年10月19日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/10/19/kiji/K20161019013562850.html 2016年10月19日閲覧。 
  135. ^ “旭日小綬章に北野武さんら…春の叙勲4151人”. 読売新聞. (2018年4月29日). http://www.yomiuri.co.jp/culture/20180429-OYT1T50010.html 2018年4月29日閲覧。  アーカイブ 2018年4月29日 - ウェイバックマシン
  136. ^ 日本数学会 広報委員会 2008年度日本数学会賞出版賞
  137. ^ Asian Heros - Takeshi Kitano” (英語). TIMEasia.com. 2002年4月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年8月8日閲覧。
  138. ^ 栗本慎一郎・吉本隆明『相対幻論』冬樹社、1983年(1985年に角川文庫に収録) ISBN 978-4041501054(角川文庫版)
  139. ^ 朝日新聞夕刊『人生の贈りもの』2008年12月5日より
  140. ^ 色川武大『なつかしい芸人たち』新潮社、1989年 ISBN 978-4103311041(「銀座百点」掲載、1987年)
  141. ^ 爆笑問題はなぜ“つまらない”ボケを繰り返すのか? 太田光の「テレビ論」 Yahoo!ニュース
  142. ^ 「ファシズムみんなで進めば怖くない」『朝日ジャーナル』朝日新聞社、1981年
  143. ^ 朝倉喬司/監修・筑紫哲也『たけし事件 - 怒りと響き』太田出版、1987年 ISBN 978-4900416284
  144. ^ 『神なき国のガリバー』、『ニッポンご託宣』
  145. ^ 『森田一義アワー 笑っていいとも!』最終回(2014年3月31日)「表彰状」イジリー北野(ビートたけし)






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