4輪時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 14:38 UTC 版)
モトクロスの危険度の高さに見合った年収が得られないことに不満を感じ、一度は収入面でモトクロス界より安定が見込めるオートレース転向を考えた。だが翌1969年にモトクロス仲間の歳森康師の推薦で日産自動車のワークスドライバーのテストを受け合格したのを機に二輪から四輪に転向。東京・大森にあった日産の宣伝部の契約ドライバー(俗に「大森ワークス」と呼ばれる)となり、主に当時「マイナーツーリング」と呼ばれた富士スピードウェイでのツーリングカーレースなどで活躍することになる。 1974年には大森ワークスの先輩(リーダー)である鈴木誠一と折半で、マーチF3のシャシーを購入し、FJ1300に参戦。エンジンは、鈴木たちが設立した東名自動車(現・東名パワード)のチューンしたもの。星野はFJ1300のデビュー戦で優勝。 1975年、全日本F2000選手権に参戦し、チャンピオンを獲得する。 1976年、ヒーローズレーシングに加入。富士スピードウェイで行われたF1世界選手権イン・ジャパンに、ヒーローズレーシングからスポット参戦。旧型のマシン(ティレル・007)を駆り大雨の中一時3位を走行する健闘を見せるが、スペアタイヤが底をつきリタイヤした(正確にはタイヤ自体は残っていたが、それを装着するホイールの予備がなかった)。以後、全日本F2選手権から全日本F3000選手権や富士GCシリーズ、全日本FP選手権、全日本耐久選手権、全日本ツーリングカー選手権 (JTC) においてチャンピオンの常連となり、レースファンやメディアから「日本一速い男」と呼ばれるようになる。 1977年、F1日本GPにコジマエンジニアリングKE009にて参戦、11位完走を果たす。10月に長男・一樹が誕生。 1978年、星野の頭の中に常にあったというヨーロッパ挑戦を6月に実現。ヨーロッパF2第6戦ルーアン・レゼサールと第7戦ドニントン・パークの2戦にスポット参戦した。日本で連勝していた体制をそのまま持ち込み、ヒーローズのノバ532・BMW(ケン松浦チューン)にブリヂストンタイヤで参戦したが、ヨーロッパF2で多勢を占めていたマーチ782・BMW+グッドイヤータイヤのパッケージに予選タイムで及ばす、決勝もドライブシャフトのトラブルが立て続き2戦ともリタイヤ。当初予定では第10戦エンナまで参戦予定だったが、ドライブシャフトのスペアが無くなってしまったためドニントンパークのレースにて遠征を終了せざるを得なかった。この遠征には当時の金額で1200万円を費やしたという。以後星野はヨーロッパへの思いを封印し国内レースへと集中することとなった。 1980年、金子豊と共に「ホシノインパル」を設立。目的は自らのレース資金を稼ぎ出すことと、星野は当時32歳であったが、レーサーをいつか辞める時が来る、その時のために自動車を通じたビジネスを成功できればとの思いがあった。なお、当初は飲食店での起業も考えたというが、自分にはクルマしかないと考えまずはホイールからやってみようと思ったという。インパルのホイールは最初の2年ヒットが出ず、金子と共に九州から北海道まで全国のホイールを取り扱うショップを巡る営業活動をレース活動の合間に地道に繰り返した。約3年後、星野自身が富士スーパーシルエットレースで「スーパーシルエット・シルビア」にインパルのホイールを装着し、市販化されたホイール「D-01シルエット」は、ひと月で2万本売れる大ヒット作となるなど、ビジネスは軌道に乗り始めた。 1983年には自らのレーシングチームとして「ホシノ・レーシング」を設立してヒーローズレーシングから独立。全日本F2選手権と富士グランチャンピオンレースおよびスーパーシルエットレースに自らのチームで参戦するようになった。また、同年から始まった全日本耐久選手権にもホシノレーシングから萩原光とのコンビで参戦を開始。6月にはイギリスのドニントン・パークで行われたヨーロッパF2選手権第8戦にスポット参戦(マシンはマーチ832・BMW)し、4位入賞を果たす。なお、この遠征により星野が不在の期間に日本で開催されたスーパーシルエット・レースでは星野の代わりに萩原がスーパーシルエット・シルビアに乗り参戦した。 1984年4月、IMPUL本社にショールームをオープンさせ、星野も静岡から転居し東京が活動拠点となった。 1985年、富士スピードウェイで開催されたWEC-JAPAN(富士1000km)に松本恵二・萩原光とのチームでマーチ・85G/日産を駆り参戦。決勝では悪コンディションでスタート順延などレース運営の混乱もある中、星野が一人ですべて走り切り独走で優勝。日本人として初の世界選手権レース勝利となった。 1987年には国内でのホンダF1テストドライバーの役目を中嶋悟から引継ぎ、ウィリアムズ・ホンダでのテスト走行を行った他、スポンサー持込などの条件付きでベネトンなどのF1のシートに誘われることも複数件あったというが、「プロのドライバーはお金を貰って走るもの。払って乗せてもらうのはあり得ない」という信念を貫き、F1のシートに飛びつくことはしなかった。 しかし海外レースでも好結果は出しており、1990年のル・マン24時間レースに日産・R90CPで出場し5位入賞、1998年のル・マン24時間レースには日産・R390で出場し、日本人ドライバートリオによる初の3位表彰台に輝いた。他にも1992年には林義正・水野和敏の指揮でデイトナ24時間レースに日産・R91CPで出場し、2位を9周引き離して完全優勝するなどの実績を挙げている。このレースでは他にもファステストラップ1分38秒495や、24時間の平均速度181.923 km/hなど、数多くの記録を塗り替えた。 1990年代に入ると全日本ツーリングカー選手権や全日本GT選手権にカルソニックカラーのスカイラインGT-Rで参戦し数多くの勝利を獲得、「カルソニックの星野」のイメージが強くなるが、全日本F3000選手権でも活躍をつづけた。 1997年シーズン開幕直前に持病の腰痛の悪化の為、国内トップフォーミュラ(フォーミュラ・ニッポン)からの引退を発表。以後も全日本GT選手権に参戦を続けるが、2002年8月に現役ドライバー引退を発表した。
※この「4輪時代」の解説は、「星野一義」の解説の一部です。
「4輪時代」を含む「星野一義」の記事については、「星野一義」の概要を参照ください。
4輪時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/20 07:45 UTC 版)
1963年末、ヤマハワークスの同僚である伊藤史朗、大石秀夫とともにプリンス自動車と契約し、4輪に転向する。 1964年4月の第2回日本グランプリで4輪レースにデビュー。プリンス・スカイラインGT(いわゆるスカG)に乗りGT-IIクラスで2位(優勝は純レーシングマシンに近いポルシェ・904)。スカイライン1500でT-Vクラス4位。 1965年前後は「砂子晴彦」と改名してレースに出場。同年8月のKSCC1時間でスカイラインGTに乗り3位。 1966年、日本初の本格的プロトタイプレーシングカーであるプリンス・R380に乗り、同年5月の第3回日本グランプリで優勝。宿敵というべきポルシェ・906を破り、1964年の第2回日本グランプリの雪辱を果たした。同年8月にプリンスと日産が合併し、両社のワークスチームも合併。砂子は以後、日産ワークス(一軍のいわゆる追浜ワークス)のドライバーとして活躍する。 1967年5月、第4回日本グランプリに日産・R380(改良型のA-2)で出場し3位。 1968年5月、'68日本グランプリに日産・R381で出場し6位。 1969年5月、フジスピードカップに日産R380で出場し3位。同年10月の'69日本グランプリでは黒澤元治とペアで日産・R382でエントリーしたが、砂子は決勝は走っていない(黒澤が1人でレースを走りきり優勝)。 1970年11月、鈴鹿自動車レース大会にスカイライン2000GT-Rで出場し3位。 1971年もレースに出場したが、現役としては一歩引き、同年代の横山達(砂子と同様、元プリンスワークス)と共に、日産ワークスチームのマネージメント役になる。 現役を退いて以後は実業家として歩んだ。 後年は各種ヒストリックイベントでスカイラインなどを走らせるほか、トークショーなどにも積極的に参加した。
※この「4輪時代」の解説は、「砂子義一」の解説の一部です。
「4輪時代」を含む「砂子義一」の記事については、「砂子義一」の概要を参照ください。
4輪時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 14:20 UTC 版)
「鈴木誠一 (レーサー)」の記事における「4輪時代」の解説
1964年5月の「第2回日本グランプリ」に、日産・ブルーバード、同セドリック、スズキ・フロンテで出場し4輪デビュー、それぞれ2位、10位、リタイヤという結果だった。 1965年に日産宣伝部チーム(後の大森ワークス)のドライバーとして契約。同年11月の「マカオGP」にブルーバードで出場、3位入賞を果たしている。同年、城北ライダース所属の久保和夫が、スズキワークスから日本人として初めてヨーロッパの2輪モトクロス世界GPに参戦した際は、鈴木も調査目的で同行。 1968年には日産ワークスドライバーとしての活動と並行して、当時ではまだ珍しいチューニングショップ東名自動車(現・東名パワード)を、元城北ライダースの仲間とともに神奈川県川崎市に開業。セドリックやフェアレディ2000などのチューニングを行う。それらのマシンは瞬く間に各地のレースで好成績を収めていき、高い評価を得る。 1968年からストックカーレースに出場。3年連続('69〜'71年)で日本のストックカーレースシリーズである「グランドナショナルストックカー選手権」の年間チャンピオンを獲得。1969年の富士スピードウェイのストックカー戦では、1963年のデイトナ500(英語版)の覇者であるタイニー・ランド(英語版)を迎え撃ち、激戦の末にファイナルラップの最終コーナーでランドを抜き去り優勝するという快挙を成し遂げた。さらに3年連続で本場アメリカのストックカーレース(NASCAR Grand Americanシリーズ)への派遣選手に選ばれ、現地で用意された間に合わせのマシンに乗りながらデイトナのハイバンクオーバル戦を戦い、69年と70年はシングルフィニッシュを獲得するなど善戦している。鈴木はその後も日本のストックカーの歴史に関わり続け、1972年にはJAFから脱退した日本オートモビル協会(NAK)が主催するJAF非公認レース、むつ湾ストックカーに車両を出場させている。 1970年1月にデビューした日産・サニー1200GX(B110型)を東名自動車でチューンし、自らの運転で同年11月の「Trans-Nics」(トランスニクス)にプライベート出場。たった一台のサニー(旧式のOHVエンジン)でトヨタワークスのカローラ(OHCエンジン)などに挑み、優勝を奪ってみせた。サニーがいかにレースに適した素性を持っているかを示し、日産ワークスも刺激を受けサニーB110型のレース用パーツの開発を始めたほどだった。これを期にワークスやプライベーターがこぞってサニーB110型をレース用に仕立て、各地のレースで優秀な成績を収め、ホモロゲーションの切れる1982年末まで活躍が続くことになった。またB110サニーのエンジンはFJ1300にも使用され、多くの若手ドライバーにフォーミュラに乗る機会を与え、名ドライバー育成の一助になった。 1973年からは富士グランチャンピオンレース(通称 富士GC、以下GC)にローラT292・BDAという組み合わせで出場。当時のGCでは、マーチ73SとBMWM-12型エンジンとの組み合わせでないと勝てないといわれており、他の出場者もこぞってその組み合わせで出場しており、鈴木とローラが勝つのは困難だと見られていた。しかし鈴木は自らの手で一戦ごとに改良点を見出し、じっくりと熟成を進めていき確実に成績を上げていった。そして、同年11月の最終戦で予選3位からスタート後、上位2台をかわし、最終的には2位を約30秒も引き離しGC初優勝。この際の平均時速202.002kmは、富士スピードウェイ6kmコース(30度バンクを含むレイアウト)での歴代3位の好記録となっている。 1974年5月5日に開催されたGC第1戦では、予選で事故を起こし最後尾からのスタートだったが、スタートから各マシンを次々に抜いて最終的には2位に入ってみせ周囲を驚かせた。 しかし、同年6月2日のGC第2戦で、スタート直後黒澤元治のマシンが北野元のマシンに複数回接触したことが発端になって発生した多重クラッシュに巻き込まれ、グランドスタンド前のガードレールに激突し、マシンは大破し炎上。同じく事故に巻き込まれた風戸裕と共に死亡した。死亡時は37歳。鈴木や風戸は事故発生に何ら関わっておらず、完全な“もらい事故”だった。
※この「4輪時代」の解説は、「鈴木誠一 (レーサー)」の解説の一部です。
「4輪時代」を含む「鈴木誠一 (レーサー)」の記事については、「鈴木誠一 (レーサー)」の概要を参照ください。
- 4輪時代のページへのリンク