4輪レーサー時代
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1964年5月、鈴鹿サーキットで行われた4輪レースの第2回日本グランプリに、ホンダワークスドライバーの一員としてS600で出場。北野は予選前日の150R(現在の130R)で大クラッシュを演じたにもかかわらず、同じチームの外国人ドライバーロニー・バックナム(ホンダF1の初代ドライバー)に次ぐ2位でレースを終えている。 1965年、ホンダ2輪チームの先輩である田中健二郎に誘われる形で、同チームの高橋国光とともにホンダから日産の追浜ワークスに移籍。以降は4輪ドライバーとして活躍する。フェアレディ1600やブルーバードでレースに出場し、日産に移籍した初戦(1965年5月の第2回クラブマン鈴鹿ミーティングレース)で2位(フェアレディ)。 1966年の第3回日本グランプリでは、フェアレディSに乗り、雨の予選で2番手を約15秒離して堂々のポールポジションを獲得した(決勝はリタイア)。 1967年1月の全日本自動車クラブ対抗レース大会で優勝(ブルーバードSSS)。同年3月の第2回ダイヤモンドトロフィーレース大会で優勝(フェアレディ1600)。同年5月の第4回日本グランプリでは、初めて乗ったミッドシップの本格的なプロトタイプ日産・R380AーIIに苦戦しながらも4位入賞。 1968年の「'68日本グランプリ」において日産・R381で念願のビッグレース総合優勝を獲得、名実ともに一流ドライバーの仲間入りを果たす。 1969年の「'69日本グランプリ」で日産・R382に乗り、同じR382の黒澤元治に次いで2位。1970年6月の「富士300マイル」でR382に乗り優勝。ただし折からのオイルショックや排ガス規制の波によって日産がレース活動を縮小したため、日産製プロトタイプマシンでの活動はこの70年が最後になってしまった。 その後はツーリングカーやGTカーを主体にレース活動を行った。フェアレディZ432では、同車のデビュー戦となった1970年鈴鹿300kmレースでリタイヤに終わったものの、先輩である田中健二郎から絶賛された。フェアレディ240Zでは、1971年の全日本ドライバー選手権で土付かずの年間チャンピオンを獲得。1972年9月3日の「富士インター200マイルレース」ではスカイライン2000GT-Rに乗り、マツダサバンナRX-3を駆る従野孝司との死闘を制し52勝目の勝利をGT-Rにもたらした。サニーエクセレントでは、1972年の日本グランプリでスタート直後の大事故で多くのサニー勢が消えた中、たった一台でトヨタ勢とバトル。そのほかブルーバード、チェリーなど多くのマシンで数多くの優勝、入賞を果たしている。 1973年中盤からは富士グランチャンピオンレース(通称・富士GC)や全日本F2000(後の全日本F2)に進出。チーム体制やマシンのポテンシャルの問題から苦戦を強いられることが多かった(両シリーズ合わせて最高位2位)ものの、常にトップドライバーと見なされていた。 1974年6月2日の富士GC第2戦で、第2ヒートのスタート直後に黒澤元治と接触。北野のマシンは制御不能となりコース上を横切り複数のマシンと衝突。4台のマシンが炎上。その内風戸裕・鈴木誠一が死亡する大事故の一因になってしまった。ただし黒澤が北野に接触したのが原因であり、北野に責任はないと見る向きが多い。この事故で黒澤は書類送検され(後に不起訴)JAFのレーシングライセンスも停止されたが、北野には何らの処分も下っていない。 1978年の「78JAF富士グランプリ」での6位を最後に一度現役を引退。以後、2輪用タイヤショップを経営。 1987年の全日本ツーリングカー選手権(いわゆるグループA)に、レイトンハウスのスカイラインRSターボで出場(コンビを組んだのは影山正彦)。 1988年、日産ワークスの後輩である星野一義主宰のホシノ・レーシングからレースに参戦。和田孝夫とコンビを組み、スカイラインGTS-Rで全日本ツーリングカー選手権に参戦。1989年は星野と組んで1年間戦い、西仙台ハイランド300kmレースでは17年ぶりの総合優勝を飾っている。この年、再び現役生活から引退する。
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