明治大学専門部商科時代
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中外商卒業後、進学を希望する。家業を継いでもらいたいと考えていた両親は当初進学に反対した。まず旧制高等学校を受験するが不合格であった。郷里で失意に沈んでいた中学の同級生が「まだ明治大学の受験が残っているので一緒に受けてみないか?」と誘った。一年浪人して勉強するよりも良いのではと考えた三木は、さっそく友人とともに上京して明大の試験を受け合格し、1926年(大正15年)4月、旧制明治大学専門部商科に入学した。当時の東京は2年半前の関東大震災による壊滅的な被害からの復興途上であり、明大も、学生、教職員、校友らが協同で復興に取り組んでいた。また明治大学の建学の精神は「権利自由、独立自治」であり、活気に溢れ自由な校風の中、これまでの挫折続きの学生生活から一変し、三木は学生生活を満喫することになる。 本郷、巣鴨、下高輪などで下宿生活を送ったことが確認されている。そのうち下高輪の竹内君江家の下宿では、家主の子息竹内潔が、後に秘書、そして参議院議員となる。生活費などは久吉が送金していたが、久吉に金の無心をする葉書が残されているところから、十分な経済的余裕がある学生生活でなかったと思われる。また郷里の父母の健康を気遣う手紙が残されており、これは故郷を離れる中で、幼少時より両親から受けた愛情を深く感じるようになっていったことを示している。 明大入学直後、クラス委員に立候補する。立候補して演説する姿が長尾新九郎の目につき、雄弁部に勧誘される。徳島市生まれの郷里の先輩にあたる長尾の勧誘もあり、雄弁部に入部する。長尾はその後も親友として後の欧米への遊説、見学時、そして衆議院議員選挙立候補時など重要な場面で支え続けた。 在学していた当時、明大は立憲民政党系の影響力が強く、木村武雄などは学生院外団に所属して民政党の応援活動に従事していた。しかし三既成政党への応援を行うことはなく、また左翼運動に興味を示すこともなく、雄弁部の活動に専念していた。明大雄弁部の活動としては、まず全国各地で演説会を開催したことが挙げられる。三木は入学直後の1926年(大正15年)7月には、名古屋市、奈良市、和歌山市、大阪市そして郷里の徳島県など四国各地での演説会に参加したのを皮切りに、北は樺太から南は台湾、そして朝鮮など外地で行われた演説会にも参加した。この全国各地での演説会開催は評判を呼び、明大学長の横田秀雄のもとには多くの礼状が届けられたという。もちろん雄弁部は学内でも演説会を開催しており、三木が学内での演説会に参加した際の記録が残されている。更に三木は1928年(昭和3年)、関東39大学の弁論部によって結成された東部各大学学生雄弁連盟の呼びかけ人の一人になった。同年12月には、時の田中義一内閣の思想取り締まりが各大学の弁論部にまで及ぶようになったことを抗議して、東京本郷の仏教青年館で各大学弁論部により開催された「第一回暴圧反対学生演説大会」において、三木は明大雄弁部キャプテンとして弾圧反対の演説を行っている。このような雄弁部の活動を通じて三木は他大学の弁論部員との交流が生まれた。その中には後に政官界、経済界で活躍する人材も多く、後に政界で活躍する三木の人脈形成の一つとなった。
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