明治大学専門部商科時代とは? わかりやすく解説

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明治大学専門部商科時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)

三木武夫」の記事における「明治大学専門部商科時代」の解説

中外卒業後、進学希望する家業継いでもらいたい考えていた両親当初進学反対した。まず旧制高等学校受験する不合格であった郷里失意沈んでいた中学同級生が「まだ明治大学受験残っているので一緒に受けてみないか?」と誘った一年浪人して勉強するよりも良いのではと考えた三木は、さっそく友人とともに上京して明大試験を受け合格し1926年大正15年4月旧制明治大学専門部商科入学した当時東京2年半前の関東大震災による壊滅的な被害からの復興途上であり、明大も、学生教職員校友らが協同復興取り組んでいた。また明治大学建学の精神は「権利自由、独立自治」であり、活気溢れ自由な校風の中、これまでの挫折続き学生生活から一変し三木学生生活満喫することになる。 本郷巣鴨下高輪などで下宿生活を送ったことが確認されている。そのうち下高輪の竹内君江家の下宿では、家主の子竹内潔が、後に秘書、そして参議院議員となる。生活費などは久吉送金していたが、久吉に金の無心をする葉書残されているところから十分な経済的余裕がある学生生活でなかったと思われる。また郷里父母の健康を気遣う手紙残されており、これは故郷離れる中で、幼少時より両親から受けた愛情深く感じるようになっていったことを示している。 明大入学直後クラス委員立候補する立候補して演説する姿が長尾新九郎の目につき、雄弁部勧誘される。徳島市生まれ郷里先輩にあたる長尾勧誘もあり、雄弁部入部する長尾その後親友として後の欧米への遊説見学時、そして衆議院議員選挙立候補時など重要な場面で支え続けた在学していた当時明大立憲民政党系の影響力強く木村武雄などは学生院外団所属して民政党応援活動従事していた。しかし三既成政党への応援を行うことはなく、また左翼運動興味を示すこともなく雄弁部活動専念していた。明大雄弁部活動としては、まず全国各地演説会開催したことが挙げられる三木入学直後1926年大正15年7月には、名古屋市奈良市和歌山市大阪市そして郷里徳島県など四国各地での演説会参加したのを皮切りに、北は樺太から南は台湾、そして朝鮮など外地行われた演説会にも参加した。この全国各地での演説会開催評判呼び明大学長横田秀雄のもとには多く礼状届けられたという。もちろん雄弁部学内でも演説会開催しており、三木学内での演説会参加した際の記録残されている。更に三木1928年昭和3年)、関東39大学弁論部によって結成され東部大学学生雄弁連盟呼びかけ人一人になった同年12月には、時の田中義一内閣思想取り締まりが各大学弁論部にまで及ぶようになったことを抗議して東京本郷仏教青年館で各大学弁論部により開催された「第一回暴圧反対学生演説大会」において、三木明大雄弁部キャプテンとして弾圧反対演説行っている。このような雄弁部活動通じて三木他大学弁論部員との交流生まれた。その中には後に政官界経済界活躍する人材多く、後に政界活躍する三木人脈形成一つとなった

※この「明治大学専門部商科時代」の解説は、「三木武夫」の解説の一部です。
「明治大学専門部商科時代」を含む「三木武夫」の記事については、「三木武夫」の概要を参照ください。

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