明治大学入学から新宮高校監督就任まで
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「古角俊郎」の記事における「明治大学入学から新宮高校監督就任まで」の解説
1940年、同僚の嶋清一とともに明治大学に入学(のちに1級下の遊撃手・竹尻太次も入学)、監督は元海草中監督の谷澤梅雄であった。しかし厚い選手層の明治大学ではなかなか正選手になれなかった(1941年は8試合に左翼手として途中出場した)。1942年、正中堅手の座を摑み、春のリーグ戦優勝に貢献した。古角の外野守備力は、のちに島岡吉郎明治大学硬式野球部監督が高田繁を指導していた当時、「昔古角、今高田」と言わしめた。 1943年、学徒出陣により海軍に入隊。当初は呉海軍航空隊、のちに土浦海軍航空隊、大井海軍航空隊、松島海軍航空隊と配転されて終戦を迎えた。なお、嶋と竹尻は学徒出陣し、戦死している。明治大学卒業後は、ノンプロの庄保商店という金属会社で選手を続けたが、いずれ家業を継ぐことから、郷里に戻った。
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