学徒出陣とは? わかりやすく解説

がくと‐しゅつじん〔‐シユツヂン〕【学徒出陣】

読み方:がくとしゅつじん

第二次大戦末期昭和18年1943以降兵力不足を補うため、それまで26歳までの大学生認められていた徴兵猶予文科系学生について停止して20歳上の学生入隊出征させたこと。


学徒出陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/31 09:12 UTC 版)

学徒出陣(がくとしゅつじん、旧字体學徒出陣)とは、第二次世界大戦終盤の1943年(昭和18年)に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳(1944年10月以降は19歳)以上の文科系〈および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の〉学生を在学途中で徴兵し出征させたことである。学徒動員とも表記される[2]




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学徒出陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 08:39 UTC 版)

上原良司」の記事における「学徒出陣」の解説

入学した12月太平洋戦争始まったが、この時点上原周囲学友たちと一緒にラジオ臨時ニュース真珠湾攻撃での日本軍大戦果に大歓声挙げ宣戦詔勅奉読脱帽し聞き東條英機首相演説聞いて胸を熱くするなど、一般学生たちと同じよう開戦へ感想日記記している。その後大学生徴兵猶予停止によって学徒出陣となって大学繰り上げ卒業し明治神宮外苑競技場での学徒出陣壮行会参加している。 1943年12月1日陸軍入営歩兵第50連隊配属となり、第2期特別操縦見習士官として熊谷陸軍飛行学校入校館林教育隊にて操縦訓練開始した。軍に入隊前は、一般学生同じよう日本勝利を喜んでいた上原であったが、今まで学生生活とは全く異な厳密な上下位階制且つ命令絶対世界体験し、また理不尽な暴力叱責、無内容精神訓話無意味な訓練強要されるうちに、学生時代培った自由主義思想」が強化されていった上原上官などに臆することなく、軍内で「自由主義思想」に基づく自分の考え主張した熊谷陸軍飛行学校では、訓練感想などを記入して上官提出する修養反省録」というノートがあったが、上原はその「修養反省録」に「教育隊人格者ナキ遺憾トスル」などと堂々と上官批判するような記述行い上官からは「貴様上官批判スル気カ」「学生根性ヲ去レ!」などと朱書き叱責返事なされている。しかし、上原はその叱責に全く臆することなく人間味カナ、自由ニ溢レ、其処何等不安モナク、各人ハ其ノ生活ニ満足シ、欲望ハアレドモ強クナク、喜ビニ満チ、幸福ナル真ニ自由ト云フ人間性ニ満チ溢レテコノ世ヲ送ラントスル時代が近ヅキツツアル。ソレハ自由主義勝利ニ依ッテノミ得ラレル。クローチェハ云ヘリ。今国家ニ特殊ナル使命ハアリ得ズ。」などとクローチェ自分標榜する自由主義」が勝利する明記し、さらに上官激怒させている。 1944年熊谷陸軍飛行学校卒業この頃から上原自分の考えを「戦陣手帳」と名付けた小さな手帳に記すようになるが、その中には「自由ハ人間性ナルガ故ニ、自由主義国家群ノ勝利ハ明白デアル日本思想的ニ既ニ敗レテ居ルノダ。何デ勝ツヲ得ンヤ」「日本ノ自由ノタメニ、独立ノタメニ死ヲ捧ゲルノダ」と、すでにファシズムイタリアや、ナチズムナチスドイツ敗れようとしているように、同じ枢軸国国家主義大日本帝国が、個人主義自由主義アメリカ大英帝国戦争負けると確信していたが、同時に日本のために飽くまでも命を捧げ戦い抜く決意もしていた。 1944年8月から鹿児島県知覧の第40教育飛行隊配属となり連日激し訓練繰り返した。この知覧での訓練はかなり過酷であった模様で、11月までの4ヶ月間は筆まめ上原家族知人一切手紙すら出せないよう状況であった一転して12月着任した佐賀県目達原第11練成飛行隊においては訓練日程比較余裕があり、女学校卒業したばかりの女性事務員たちと交流持ちテニスラケットボール貸してもらって慶應義塾大学日吉キャンパステニスコート懐かしみながら友人テニス楽しんだりしていた。目達原基地では1945年3月6日特攻志願募られたときに、上原一緒に訓練していた80名の搭乗員特攻志願した特攻志願した上原故郷へ帰郷許されて、4月6日最後の帰郷をした。上原家族親戚幼なじみ会ったが、誰にもこれが最後とは告げなかった。しかし幼なじみ親友犬飼五郎には、「死地赴くのに喜んで志願する者は一人だっていない。上官が手をあげざるをえないような状況つくっているのだ。仕方ない と心で泣き泣き手をあげているのが本当の気持ちさ」と語り家族一夜過ごしたときには、酒を飲みながら「日本敗れる。俺が戦争で死ぬのは、愛する人たちのため。戦死して天国にいくから靖国神社にはいないよ」と語っている。軍に入隊当初上原は「修養反省録」に「靖国ノ神トナル日ハ近ヅク」などと書いており、考え大きく変化したことがうかがえる上原は、4月15日調布飛行場にて、常陸教導飛行師団陸軍航空士官学校57期池田元少尉隊長として編成され陸軍特別攻撃隊56振武隊配属となった。第56振武隊隊長池田以外の隊員は、上原同期第2期特別操縦見習士官編成され全員将校部隊であった上原らは調布飛行場乗機となる三式戦闘機「飛燕」受領し機体整備訓練行った。ここでは、気の置けない同期生たちとざっくばらんな会話をしていたようで、面会に来た妹の清子が、上原同期生たちが「俺と上原一組か。大物をやれよ。小破なんか承知せんぞ」 「当然だ空母なんか俺一人沢山だ」「これがニューヨーク爆撃なんていうなら喜んで行くんだがな。死んでも本望だ」「心残りアメリカ一遍見ずに死ぬことさ。いっそ沖縄なんか行かず、東の方に飛んで行くかな」「アメリカ行かぬままお陀仏さ」「向こう奴らは何と思うかな」「ほら、今日も馬鹿共が来た。こんな所までわざわ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」などと語り合っているのを聞いている。 5月3日上原ら第56振武隊陸軍特攻基地である知覧基地到着した知覧町には、上原陸軍特別攻撃隊員たちが食事をした「富屋食堂」があったが、上原はそこの女鳥濱トメに「小母さん日本負けるよ」と来店するたびに呟いていたという。鳥濱上原呟き聞くと「そんなことはいってはいけない。ここには憲兵もいるんだから、気をつけなさいよ」と優しく諫めていた。

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学徒出陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 01:05 UTC 版)

吉田満」の記事における「学徒出陣」の解説

19歳となった1942年昭和17年)の4月東京帝国大学法学部(現・東京大学法学部)に入学この年11月に姉・瑠璃子細川宗平結婚した。 満20歳となった1943年昭和18年10月の学徒出陣により、12月から海軍二等水兵として武山海兵団入団翌年1944年昭和19年2月に、海軍兵科第四期予備学生となり、7月予備学生隊として海軍電測学校入校同月帝大法学部卒業した。この同月には、義兄細川宗平中国にて戦病死となった同年1944年昭和19年12月海軍電測学校卒業した吉田少尉予備少尉)に任官され、戦艦大和に副電測士として乗艦を命ぜられ電探勤務となった。 満22歳となった翌年1945年昭和20年)の4月3日戦艦大和沖縄への出動命令下り吉田天一号作戦坊ノ岬沖海戦)に参加した連合艦隊はほとんど壊滅し護衛飛行機も一機もない中、米艦船埋め尽くされていた沖縄の海に向け出発した戦艦大和7日徳之島西北の沖にいた。 その運命の日吉田哨戒士官を命ぜられ、艦橋にいた。8回にわたる米軍機1000機の猛攻撃受けて戦艦大和あえなく沈没した吉田頭部裂傷負ったものの、辛うじて死を免れたしかしながら多く同胞の死を目の当たりにしたそれらの壮絶な体験生涯消えることのない記憶となった絶え間ない炸裂衝撃叫喚の中で私の肉体ほしいままに翻弄された。躍り.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}匍(は)い走りすくんだ。こころは今や完全に機能失い感覚だけが目ざましい反応つづけた筋肉神経痙攣して、ただそれに追われるばかりであった。死が、血しぶきとなり肉片となって私の顔にまといついた或る者は、まなじり決したまま、一瞬飛び散って一滴血痕ものこさなかった。他の者は、屍臭にまかれ恐怖叩きのめされ失神し身動き出来ぬままなお生を保っていた。およそ人訴え無視し、ときとところを選ばぬ死神跳梁、生の頂点のぼりつめて、死の勾配を逆落ちながら、あばかれる赤裸々その人間。蒼ざめたまま口を歪めてこときれる者。女神のような微笑みをたたえ、ふと唇をとじる者。人生のような芝居のような戦闘一局面。そこでは、一切対する、想像批判連想通用しない。 — 吉田満「死・愛・信仰その後吉田はまだ傷が完治していないまま入院していた病院希望退院して特攻志願同年7月高知県高岡郡須崎回天基地人間魚雷基地)に赴任した。しかし、命ぜられた任務特攻ではなく基地対艦船用電探設営隊であった米軍の上陸迎え撃つため、吉田須崎湾の突端久通という部落陣地の構築行なった

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学徒出陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 02:37 UTC 版)

江橋慎四郎」の記事における「学徒出陣」の解説

1943年昭和18年10月21日開催され神宮外苑での学徒出陣壮行会では、答辞読んだ。 以下全文明治神宮外苑学徒多年武を練り、技を競い皇国学徒志気発揚来れる聖域なり。本日、この思い出多きに於て近く入隊の栄を担い戦線赴くべき生等(せいら。自分達。以下同じ)の為、斯くも厳粛盛大な壮行会開催せられ、内閣総理大臣閣下文部大臣閣下よりは、懇切なる御訓示忝くし、在学学徒代表より熱誠溢る壮行の辞を恵与せられたるは、誠に無上光栄にして、生等の面目、これに過ぐる事なく、衷心感激措く能わざるところなり。惟(おも)うに大東亜戦争宣せられてより、是に二星大御稜威の下、皇軍将士の善謀勇戦は、よく宿敵米英勢力東亜天地より撃攘払拭し、その東亜侵略拠点悉く我が手中帰し大東亜共栄圏建設はこの確乎として磐石如き基礎の上着々として進捗せり。然れども暴虐飽くなき米英今やその厖大なる物資生産力とを擁しあらゆる科学力動員し、我に対して必死反抗試み決戦相次ぐ戦局様相は、日を追って熾烈の度を加え事態益々重大なるものあり。時なる哉、学徒出陣の勅令公布せらる。予ねて愛国衷情僅かに学園内外にのみ迸しめ得たりし生等は、是に優渥な聖旨を奉体して勇躍軍務に従うを得るに至れるなり。豈に感奮興起せざらんや。生等今や、見敵必殺銃剣をひっ提げ積年忍苦精進研鑚挙げて悉くこの光栄ある重任に獻げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生等もとより生還期せず在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え邁往敢闘以て大東亜戦争完遂し、上宸襟かみしんきん)を安んじ奉り皇国富岳の寿きに置かざるべからず斯くの如き皇国学徒本願するところ、生等の断じて行する信条なり。生等謹んで宣戦大詔奉戴し、益々必勝信念透徹し愈々不撓不屈闘魂磨礪し、強靭な体躯堅持して、決戦場裡挺身し誓って皇恩万一報い奉り、必ず各位御期待に背かざらんとす。決意一端開陳し、以て答辞となす。昭和十八年十月二十一日。 「生等、もとより生還期せず」は有名な言葉である。答辞教授添削受けたが、「生還期せず」は自ら考えたのだった出陣後、航空整備兵として内地陸軍大日本帝国陸軍)に所属する。 「答辞」の体験については、その後あまり語りたがらなかった。67年後に朝日新聞大久保真編集委員インタビュー答えて、「答辞我が身にとっては名誉なこと。だが、戦没者のことを思えば何も言えない」と、戦後ずっと黙していた心の内語った壮行会から満70年となる2013年には毎日新聞において、「僕だって生き残ろうとしたわけじゃない。でも『生還期せず』なんて言いながら死ななかった人間は、黙り込む以外、ないじゃないか」と述べ戦後事実異なる噂やデマによる中傷にも反論しなかったことを明かしている。同じ記事では「自分が話すことが、何も言えずに亡くなった人の供養になる。最近そう思っている」と記されている。

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