ABCD包囲網
別表記:ABCD包囲陣
「ABCD包囲網」は、1930年代にアメリカ、イギリス、中国、オランダの4ヵ国が日本に対して敷いた経済的圧力(経済制裁あるいは経済封鎖)による包囲網の通称である。「ABCD」はそれぞれアメリカ(America)、イギリス(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)の頭文字である。
「ABCD包囲網」は、満州事変から日中戦争へ連なる「日本の中国大陸進出」に対する利害関係国の経済制裁として行われた。日本は日本は軍需物資の調達を阻まれることになったが、包囲網に対して強硬な姿勢を強めていった。そして、この対立が太平洋戦争の勃発につながるのである。
「ABCD包囲網」の基本的な意味
「ABCD包囲網」は、1930年代後半に行われた、日本を相手とする経済制裁あるいは経済封鎖である。太平洋戦争開戦前に、アメリカ、イギリス、中国、オランダの4国が、日本に対して行った経済的な対策全般を指す。ただ、4国が組織的に包囲網を作ったわけではない。日本からの視点で、敵である国がまるで自国を包囲しているかのような構図になったため、包囲網と呼ぶようになった。そして、現代でも世界史の用語として、ABCD包囲網が使用される。ABCD包囲網のきっかけとなったのは、日本の中国への進出である。1930年代の日本は、満州国を作るなど、中国へと勢力を伸ばした。そして、1937年には日中戦争が勃発する。そのような日本の勢力を抑制するために、1940年にアメリカが日米通商航海条約の破棄を通告する。通商航海条約はそのまま失効となり、アメリカは屑鉄や石油などの輸出を制限した。
その後、日本がフランス領インドシナに進駐したことをきっかけに、アメリカは石油輸出の全面禁止と、対日資産の凍結という経済制裁を行った。当時の日本は、軍事的資源の大部分を、アメリカからの輸入に頼っていた。そのため、軍事行動ができなくなってしまった。さらに、アメリカの経済制裁に、イギリスとオランダが加わり、日中戦争の相手である中国と合わせて、ABCD包囲網と呼ばれる構図が完成した。
新たに石油を輸入することができず、備蓄する石油量が限られていた日本は、状況を打開するためにアメリカとの戦争を余儀なくされていた。けれど、即時開戦とはならず、アメリカとの交渉を続けた。しかし、アメリカ側が日本の案を受け入れることはなかった。そして、交渉の最終通告として、アメリカ側からハルノートというものが付き付けられた。ハルノートは、アメリカの国務長官ハルが提示した覚書である。
ハルノートには、日本軍が中国大陸から撤退することや、日独伊三国同盟を否認することなどが書かれていた。また、中国の政権として、日本の傀儡であった南京政府ではない、蒋介石政権のみを認めることも要求された。このようなハルノートの内容は、日本の要求をことごとくはねつけるものであり、日本は到底受け入れることはできなかった。
この時、アメリカはすでに開戦するつもりで、無理難題ばかりのハルノートを提示したと考えられている。そして、最後の交渉が決裂したことで、日本は開戦を決意し、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦された。ABCD包囲網は、日本とアメリカやイギリスとの溝を深め、太平洋戦争が開戦するきっかけのひとつとなった。
「ABCD包囲網」の語源・由来
「ABCD包囲網」の「ABCD」は、太平洋戦争において、日本の敵であった4つの国「America(アメリカ)」「Britain(イギリス)」「China(中国)」「Dutch(オランダ)」の頭文字を並べたものだ。そして、それぞれの国の本土と植民地が、日本を包囲するような構図となったため、ABCD包囲網と呼ばれるようになった。ABCD包囲網という呼び名の出所は不明確だが、当時の日本のメディアが作ったと考えられている。「ABCD包囲網」と「ABCD包囲陣」の違い
「ABCD包囲網」は「ABCD包囲陣」と呼ばれることもあるが、違うのは呼び方だけであり、意味は全く同じだ。現代では、ABCD包囲網が使用されることが多い。「ABCD包囲網」の使い方・例文
「ABCD包囲網」は、太平洋戦争に関する歴史的な用語として使用されることが多い。例文にすると、「ABCD包囲網が経済封鎖なのか、それとも経済政策なのか、識者の間で議論が巻き起こっている」「今日子供が学校で、ABCD包囲網について習ったそうだ」「ABCD包囲網をテーマにしたドキュメンタリーが、テレビで放送されている」といった形だ。また、「先日行われた会談は、現代のABCD包囲網なのではないか」のように、現代で経済封鎖や経済制裁が行われた際、ABCD包囲網が比喩として用いられることもある。ABCD包囲網
ABCD包囲網
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/31 00:37 UTC 版)
ABCD包囲網(エービーシーディーほういもう、英語: ABCD line)とは、1930年代後半(昭和10年頃)から、海外に進出する日本に対抗して行われた石油や屑鉄など戦略物資の輸出規制・禁止による米英蘭中諸国による経済的な対日包囲網。「ABCD」とは、貿易制限を行っていたアメリカ(America)、イギリス(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)と、各国の頭文字を並べたものである。ABCD包囲陣[1]、ABCD経済包囲陣、ABCDライン(英: ABCD line)とも呼ばれる。この呼称は日本の新聞が用いたものとされる[2]が、初出については良く分かっていない[注釈 1][注釈 2]。
- ^ 不破哲三によると「昭和16年の開戦直前に、政府と軍部が宣伝的に持ち出したもの」[3]
- ^ たとえば1941年9月に興亜書林から『日本を包囲するABCDライン』という本が出版されており(世界情勢研究会「 日本を包囲するABCDライン 興亜書林 1941年 近代デジタルライブラリー 1455066)、その他、1941年8月22日付民主電臺(UP)や8月31日付正言報(新嘉坡三十日ルーター電)を転載する日本政府の資料の存在がアジア歴史資料センターで確認できる(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03024754300「英米両首脳、ABCD陣強化を決意」民主UP八月二十二日、Ref.A03024758600「ABCD陣営、対日戦を辞せず」正言報八月三十一日
- ^ この点については第二次世界大戦後、国際連合憲章第二条四項にいう「力(force)」の射程をめぐり、それを経済的・政治的力の行使まで広く含むものとする社会主義国及び第三世界諸国と、より限定的に武力の行使のみを意味するにすぎないとする欧米諸国との対立が見られた。この対立は今日では、国際連合憲章第二項四項はあくまで武力行使を禁じるに留まるが、経済的・政治的強制力の行使も不干渉原則に抵触する限りにおいて違法(ここでは「違法とされる戦争」)とされる、との了解により決着している。とはいえ、こうした了解が非軍事的力の行使が提起する全ての法的問題を論じるうえでの原則になるわけではない[5][6]。
- ^ モーゲンソー日記によれば、ルーズベルト大統領は「結局、イタリアと日本が宣戦布告せず交戦する技術を進化させてきたとすれば、なぜ我々は同様の技術を開発できないのか」と語ったとされる[4]
- ^ アメリカ議会は1937年中立法が39年の5月1日で2年間の期限が切れ、議会は中立法の扱いをめぐり紛糾の中にあった。1939年中立法が成立したのは大戦が勃発した後の11月4日であった[11]。
- ^ ただしアメリカ国民から法令に対する憲法訴訟を提起されるリスクが内在していた。
- ^ 1933年3月6日の金輸出禁止令(金本位制離脱)および10日の大統領令によりすでに金塊の輸出は許可制となり、4月に入ってアメリカからの金輸出の許可申請が集中したためふたたび金輸出の禁止が声明(20日に行政命令を布告)されていた。横浜正金は為替決済の中心をロンドンに移し、1939年の英仏対独宣戦布告により再びニューヨークに移した。アメリカに対してはつねに輸入超過であり金不足、一方でロンドンに切り替えて以降は為替収支は安定しロンドンに対しては輸出超の金超過の決済状況であった。アメリカの金輸出禁止令以降むしろ日本政府は円ブロック内で金を買い集めて金塊を現送しなければならない状況であり、ニューヨークでの正金は1938年にはほとんど枯渇した。日銀は38年中に3億円相当の金塊を横浜正金に預入して外国為替基金を設立し、横浜正金は38年度中にアメリカへ金現送を完了し、39年10月26日にはすべて売却し米ドル55,920,174ドル54セントおよび英ポンド8,753,602ポンド1シリング2ペンスの預金として運用を始めた(換算合計96,939,490ドル相当)。なお1938年当時の日本政府の国庫歳出は80億8400万円。対敵通商法は敵性資産の没収を規定しており返還はされない性質のものだった[13][14]。
- ^ ソ連によるポーランド侵攻と、フィンランドとの『冬戦争』に対する措置[22](国際連盟は除名)で、アメリカの製品と技術が非人道的行為に利用されないための輸出制限に協力するよう、世界の航空機メーカーや輸出業者に国務省から発出された「通知」。最初のものは1938年6月に出されている。
- ^ 原文は "ABCD powers"
- ^ ロンドンにおける亡命政府。当時、オランダ本国はドイツの占領下にあった
- ^ ジョージ・モーゲンスターン(George Morgenstern)、1906-1988年、米国・シカゴ生まれ。シカゴ大学で歴史学専攻後、25年新聞界で働く。『シカゴトリビューン紙の外交問題と国際問題の論説委員だった。第二次世界大戦中は海兵隊大尉として海兵隊総司令部広報部付ニュース班長だった。海兵少佐で退官。
- ^ ABCD包囲陣コトバンク
- ^ 新しい歴史教科書をつくる会・編『新しい歴史教科書』扶桑社、P203
- ^ しんぶん赤旗「日本の戦争―領土拡張主義の歴史 不破哲三さんに聞く 第3回 三国同盟と世界再分割の野望」、日本共産党、2006年9月20日
- ^ a b c d e f 高橋文雄「経済封鎖から見た太平洋戦争開戦の経緯」『戦史研究年報』、防衛省防衛研究所戦史部、2011年3月31日。NDLJP:10366917
- ^ 深津栄一「国際法秩序と経済制裁」、北樹出版、1982年4月1日、61-65頁。NCID BN00437875
- ^ 岩月直樹「伝統的復仇概念の法的基礎とその変容 : 国際紛争処理過程における復仇の正当性」、立教法学、2005年2月10日。NAID 110001065318
- ^ 歴史群像シリーズ決定版太平洋戦争1「日米激突」への半世紀 学研パブリッシング、2008年,70頁
- ^ 大阪時事新報「印関反対で棉花商も蹶起 : 印度の棉花商協会に対して関税引上げ反対を打電す!」。1932年7月14日。
- ^ 大阪毎日新聞 1933.
- ^ 大阪朝日新聞「破綻の日濠通商 : 業者率先して鷹懲策を支持 : 急速に解決は困難」。1936年6月25日。。
- ^ 安藤次男「第2次大戦前におけるアメリカ孤立主義と融和政策」『立命館国際研究』、立命館大学、2001年6月。NDLJP:8313212
- ^ Econoic Affairs6「社会的共通資本と金融制度」宇沢弘文[1]PDF-P.2
- ^ エドワード・ミラー、金子宣子訳『日本経済を殲滅せよ』 、新潮社、2010年7月1日。ISBN 4105284029
- ^ 日本銀行百年史「金・為替の統制と国際金融政策」
- ^ 岩間敏「戦争と石油 (1) ~太平洋戦争編~」NAID 40007129667
- ^ 全国経済調査機関連合会編『日本経済年誌 昭和9年版』。1935年。国立国会図書館。
- ^ 神戸又新日報1935年4月27日「満洲石油問題で米国政府が我に再抗議 : 同国人の権利を保障せよと」神戸大学経済経営研究所『新聞記事文庫』。
- ^ 大阪毎日新聞「我綿織物を主眼に米国、関税引上げ平均: 四割二分、実施は来月二十日: 紳士協定交渉は決裂」。1936年5月22日。
- ^ a b c 小松直幹 2004.
- ^ 南満州鉄道『満鉄四十年史』。2007年11月。吉川弘文館。
- ^ 大阪毎日新聞1938年6月29日 1938.
- ^ Office of the Historian, Foreign Service Institute. "U.S.-Soviet Alliance, 1941–1945". United States Department of State.
- ^ a b c d e f g h 岩間敏「戦争と石油(3) ー『日蘭会商』から石油禁輸へー」独立行政法人 石油天然ガス・金属鉱物資源機構,2010年3月19日,NAID 40017030605,2022年3月19日閲覧
- ^ a b ウィンストン・チャーチル、佐藤亮一訳『第二次世界大戦』、河出文庫、2001年7月1日、35頁。
- ^ 来栖三郎 『泡沫の三十五年』中央公論新社〈中公文庫〉、2007年、107-108頁。
- ^ コーデル・ハル 『ハル回顧録』中央公論新社〈中公文庫〉、2001年、180-183頁。
- ^ Joseph C. Grew, Ten Years In Japan, Hesperides, 2006, p.417.
- ^ James R. Leutze (1977年). “Bargaining for Supremacy. Anglo-American Naval Collaboration, 1937–1941”. University of North Carolina. pp. 16-17. ISBN 0807813052
- ^ B.H. Liddell Hart(1999-5-7). "A History of the Second World War". p.199. ISBN 1447266927
- ^ J. F. C. Fuller(1993-3-22). "The Second World War, 1939-1945: A Strategical and Tactical History". p.128. ISBN 9780306805066
- ^ J.F.C.フラー 『制限戦争指導論』 原書房 2009年5月8日 P405 原出はチャーチルの『第二次世界大戦回顧録』
- ^ Samuel Eriot Morison, The Two-Ocean War, Naval Institute Press, 2007, p.42.
- ^ ジョゼフ・S・ナイ・ジュニア 『国際紛争 理論と歴史』有斐閣、2007年、137頁。
- ^ 吉田裕『アジア・太平洋戦争』岩波書店〈岩波新書〉、2007年、13頁。
- ^ ブライアン・ファレル「太平洋戦争初期における連合国側の戦略--東南アジア戦線」(防衛研究所、戦争史研究国際フォーラム,2009.9.30)[2]PDF.PP.1-2
- ^ 秦郁彦編 『昭和史20の争点』文藝春秋〈文春文庫〉、2006年、89頁。
- ^ 井口治夫, 「国際関係史のなかの日米経済関係 : 鮎川義介の日米経済提携構想とフランクリン・ローズヴェルト政権の実力者モーゲンソー財務長官」『アメリカ太平洋研究』 vol.13, 2013.3月, p.39, 東京大学大学院総合文化研究科附属グローバル地域研究機構アメリカ太平洋地域研究センター
- ^ オーナ・ハサウェイ/スコット・シャピーロ 著、野中香方子 訳『逆転の大戦争史』文藝春秋、2018年10月10日、254頁。ISBN 9784163909127。
- ^ a b オーナ・ハサウェイ/スコット・シャピーロ 著、野中香方子 訳『逆転の大戦争史』文藝春秋、2018年10月10日、17頁。ISBN 9784163909127。
ABCD包囲網
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 17:21 UTC 版)
「ABCD包囲網」も参照 ABCD包囲網とはA(アメリカ)、B(イギリス)、C(中国)、D(オランダ)による軍事的、経済的封鎖の包囲網が作られたとする当時の日本国政府による呼称であるが、これによって「やむを得ず」戦争を起こさせられたのかどうかは歴史の検証における焦点のひとつであり、ルーズベルトの陰謀説もこの議論の一部を形成する。 秦郁彦によれば、ABCDの国々の間で早い段階から対日戦が計画にあったのかどうかであり、イギリスやオランダの領地が日本に攻撃されたとき必ずアメリカは参戦すると密約があったとするものである。ワシントンとシンガポールでその会議は行われ、その報告書は「ABC-1」、「ADB-1」と呼ばれ、「レインボー5号」になったとされている。米政府は日本軍が南部仏印に進駐するのをみて7月26日に日本資産凍結を発表した。これは必ずしも貿易の禁止を意味するものではなかったが、米国内の資産で貿易を決済出来ない事になるのであるから、事実上の禁輸であり英国、蘭印もこれにならった。米国が日本への石油の輸出をやめれば蘭印の石油を日本が奪いにくることは明白だったので、蘭印政府は米国に蘭印への軍事援助があるかどうか打診したが、米側からは回答がなかった。しかし日本は石油・ゴム・スズ・屑鉄の軍事物資が止められたので止む無く戦争を始めたといっているが、そうではなく、以前の7月2日の御前会議で「情勢推移に伴う帝國国策要綱」で「南方進出の態勢を強化す」「帝國は本号達成のため対英米戦を辞さず」としていた。戦争への引き金はABCD包囲網ではなかった。(検証・真珠湾の謎と真実)[要文献特定詳細情報] 須藤眞志は、大統領が承認していないので米政府を縛る拘束力もなく、「レインボー5号」の作成に関係があったのか証明が出来ず、ABCDラインの証拠ともならないとしている。[要出典] ジョージ・モーゲンスターン は、両報告書は陸海軍トップの承認後6月に大統領に提出されたとしているが、「これは各国の承認を必要とする」として承認は拒否されたとしている。[要出典]
※この「ABCD包囲網」の解説は、「真珠湾攻撃陰謀説」の解説の一部です。
「ABCD包囲網」を含む「真珠湾攻撃陰謀説」の記事については、「真珠湾攻撃陰謀説」の概要を参照ください。
ABCD包囲網(あんこたっぷりぼっちゃんだんごライン)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:22 UTC 版)
「四十七大戦」の記事における「ABCD包囲網(あんこたっぷりぼっちゃんだんごライン)」の解説
坊っちゃん団子を相手に撃ち込む攻撃技。被弾した際には「ボッチャン」と音がする。また、夏目漱石の残り香が漂う。
※この「ABCD包囲網(あんこたっぷりぼっちゃんだんごライン)」の解説は、「四十七大戦」の解説の一部です。
「ABCD包囲網(あんこたっぷりぼっちゃんだんごライン)」を含む「四十七大戦」の記事については、「四十七大戦」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- ABCD包囲網のページへのリンク