ハル‐ノート【Hull-Note】
【ハル・ノート】(はる・のーと)
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前の日米交渉で、1941年11月26日にアメリカ側から日本側に提示された交渉文書のこと。
正式には「アメリカ合衆国と日本国の間の協定で提案された基礎の概要(日米協定基礎概要案)」と称する。
日米交渉でのアメリカ側当事者、コーデル・ハル国務長官の名前から「ハル・ノート」と呼ばれる。
1941年11月20日に日本から提示された日本側の国交調整最終案「乙案」を拒否する回答として、日本時間27日に提示された。
その内容は「日本の中国及び仏印からの撤兵」、「中国において、重慶を首都とする国民政府以外の政権を認めないこと」など、日本にとって酷な要求を突きつけた交渉文書だった。
結果、これにより日米交渉は打ち切られ、1941年12月1日の御前会議で対米英蘭開戦を決定した。
ハル・ノート
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ハル・ノート(Hull note)、正式名称:合衆国及日本国間協定ノ基礎概略(がっしゅうこくおよびにほんこくかんきょうていのきそがいりゃく、Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)[1]は、対英米戦争開戦直前の日米交渉において、1941年(昭和16年)11月26日(日本時間11月27日[2][注釈 1])にアメリカ側から日本側に提示された交渉文書である。
注釈
- ^ 以降日付は現地時間を採用し、必要に応じてアメリカ時間または日本時間を併記する。ワシントンD.C.と東京都の時差は14時間である。
- ^ 日本側が日米交渉を「正式な交渉(formal negotiations)」と位置づけていたのに対し、アメリカ側は「非公式な予備的会談(exploratory conversations)」と位置づけていた[10]。ハルはその理由を「先ず日米間で交渉の基礎に到達しなければ、イギリスや中華民国、その他関係諸国に相談できないからだ」としている[10]。 交渉の初期からハルは、野村大使との討議は「非公式」なもので、交換される文書も「非公式」と明記されている、と釘を刺している[11](ハル・ノート以前のアメリカ案には“Unofficial, Exploratory and without Commitment”の但し書きがある)が、東郷外相は、この手の但し書きは「アメリカの常套句」で特別な意味はない、11月は「本格的交渉の段階」としている[12]。
- ^ アメリカ陸軍情報部の報告では、わずか10隻程度の日本軍の輸送船の「通常行動」とされていたが、スティムソンの日記では「五個師団」の大兵力が「30~50隻」の輸送船に乗り込み、台湾沖を南へ移動と数が誇張されている[16]。
- ^ 英文:The Government of Japan will withdraw all military, naval, air and police forces from China and from Indochina. (日本国政府は、支那及び印度支那より一切の陸、海、空軍兵力及び警察力を撤収すべし)
- ^ 当初は満洲を除くという項目があったが、最終的に削除された。
- ^ 実際には開戦当日1941年12月8日午前11時40分に「宣戦の詔書」が裁可され、直ちに煥発された[38]。真珠湾攻撃開始は、12月8日午前3時20分。
- ^ 海軍大臣の嶋田繁太郎は東京裁判の宣誓供述書において、ハル・ノートを受けて海軍が戦争を決意せざるを得なかったかの如く述べ、これを痛烈に非難しているが、実際に嶋田が戦争を決意したのは1941年の10月30日である[46]。
- ^ たとえば、『機密戦争日誌』には「昨年本日は米国か対日最後通牒を発したるの日なり」(1942年11月27日付)との記述がある[61]。
- ^ ハル・ノートが提示される1日前の11月26日(日本時間)午前6時、機動部隊は択捉島単冠湾を出発していたが、「日米交渉成立セバ機動部隊ハ即時帰還集結スル如ク行動スベシ」との命令を受けていた[69]。
- ^ 題は「大詔を拝し奉りて」。12月8日午前11時45分の「宣戦の詔書」渙発発表後、当日夜に行われた。「彼(米国)は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、却て英、蘭、支と聯合して支那より我が陸海軍の無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄を要求し、帝国の一方的譲歩を強要してまいりました」とある[79]。
- ^ この一節の原出典は米国人現代史家アルバート・ノックの回想録"Memories of a Superfluous Man"(1943)であり、東郷外相の手記にも引用されている[107]。
- ^ ホワイト事件の発端は、ソ連のスパイであったエリザベス・ベントレイの告発による[124]。ホワイトの死後もソ連のスパイであったウイタカー・チェンバーズが、ホワイトはソ連のスパイだと証言している[123]。なお、ホワイトへの工作に携わったパヴロフは「財務省には2人のエージェントがいて、それ以上の情報源は不要だった」として、スパイ説を否定的に証言している[125]。
- ^ ソ連の諜報活動は日本でもゾルゲ諜報団・尾崎秀実らの工作が有名であり、その諜報網は日本政府や軍部の中枢に到達していた[127]。
- ^ ルーズベルトがホワイト作成のハル・ノートを日本に渡せと言った際、「我々は日本をして最初の一発を撃たせるのだ」と言った[136]とする見方もある。
出典
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ハル・ノート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)
11月27日(アメリカ時間11月26日)に、裏では日本軍による南方作戦準備が着々と進む中で、アメリカのコーデル・ハル国務長官から野村吉三郎駐米大使と、対米交渉担当の来栖三郎遣米特命全権大使に通称「ハル・ノート」(正式には:合衆国及日本国間協定ノ基礎概略/Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)が手渡された(なお、これの草案を手掛けた財務次官補のハリー・デクスター・ホワイトは、第二次世界大戦後にソ連のスパイであることが判明し、1948年に自殺している)。 この中には、「最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始」や「アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結を解除」、「円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立」など、日本にとって有利な内容が含まれていたが、「仏印の領土主権尊重」や「日独伊三国同盟からの離脱」、日中戦争下にある「中国大陸(原文「China」)からの全面撤退」といった譲歩を求める内容もあった。 この文章はあくまでハルの出した「基礎提案 (Outline of Proposed Basis)」であり、その上に「厳秘、一時的にして拘束力なし (Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment)」と明確に書かれてあり、題名の「基礎提案」通りに、ここから日米両国の当事者で落としどころを探るものであったものの、内容としては日本側の要望を全て無視したものであったことから、日本側は事実上の「最後通牒」と誤訳と意訳、解釈し、そして最終的に認識した。 そしてこの中にある日本側が最重要視する「満州国を含む全中国からの撤退」か、それとも「満州国を含まない全中国からの撤退」を求めているか否かなど、肝心かつ重要な点をハルをはじめ全くアメリカ側に対し明確にしないまま、12月1日の御前会議で日本政府は対英米蘭開戦を決定する。
※この「ハル・ノート」の解説は、「第二次世界大戦」の解説の一部です。
「ハル・ノート」を含む「第二次世界大戦」の記事については、「第二次世界大戦」の概要を参照ください。
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