天佑としての受け取り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:24 UTC 版)
「ハル・ノート」の記事における「天佑としての受け取り」の解説
暫定協定案については、海外での中国のリーク情報が回り回って日本側にも伝わっており、「米国は経済関係を回復するから、日本も武力行使を取りやめよというような内容のものと判断される」(佐藤賢了軍務課長)、「米側の要求として、我方の仏印部隊全面撤退と資産凍結解除とを関連せしめる模様」(東郷外相)との見方があった。しかし、ハルの回答は対日妥協案のようなものではなく、「予想に反し全く強硬な内容」(佐藤)であった。 『機密戦争日誌』には在米武官からの電報について次のように記されている。 「果然、米武官より来電、米文書を以て回答す、全く絶望なりと。曰く四原則の無条件承認 支那及仏印よりの全面撤兵 国民政府(汪兆銘政権)の否認 三国同盟の空文化 米の回答全く高圧的なり。而も意図極めて明確、九カ国条約の再確認是なり。対極東政策に何等変更を加ふるの誠意全くなし。交渉は勿論決裂なり。之にて帝国の開戦決意は踏み切り容易となれり、芽出度芽出度(めでたしめでたし)。之れ天佑とも云ふべし。之に依り国民の腹も堅まるべし、国論もー致し易かるべし」 また、佐藤軍務課長も「米の懐柔政策により、わが国論の一部に軟化を来たし、大切な時に足並みが揃わぬことがあっては大問題だと思っていたが、かくの如き強硬な内容の回答を受け取ったことにより、国論が期せずして一致することが出来たのは洵に慶賀すべきことである」としたように、主戦派にとってはハル・ノートは「天佑」であった。実際、東郷や大蔵大臣の賀屋興宣も開戦に反対せず、海軍も戦争の決意を固め、全員一致で開戦の決意がなされた。その意味では、ハル・ノートは日本にとって真珠湾攻撃に匹敵する衝撃を与えたと言える。
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