真珠湾攻撃陰謀説
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真珠湾攻撃陰謀説(しんじゅわんこうげきいんぼうせつ)は、1941年(昭和16年)12月8日(日本時間、現地時間は12月7日)の太平洋戦争の開戦をさせた大日本帝国海軍の真珠湾攻撃を、アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトが、「事前察知をしながらそれをわざと放置した」という説である。
- ^ トルーマン政権の国務長官を務めたジェームズ・F・バーンズとは別人。
- ^ 須藤眞志はプランゲの真珠湾に関する著書について、「専門家からも比較的信頼されている」としている[5]。
- ^ 日本の在外公館への情報提供のため、海外向けラジオニュースに天気予報を装ったメッセージを入れて非常事態を伝える、というもの[5]。
- ^ 須藤は、秦(編)(2001)の寄稿文(「真珠湾陰謀説の系譜」)でもほぼ同じ内容を記載している[8]。
- ^ アメリカから日本への屑鉄禁輸は、これらに先立つ1940年10月に実施されている。
- ^ 野村吉三郎大使に渡した覚書「日本政府が隣国諸国を武力、若しくは武力威嚇による軍事的支配の政策、もしくはプログラム遂行のため、さらに何らかの措置を執るについては合衆国政府は時を移さず合衆国及び米国民の合法なる権利防衛のため、及び合衆国の安全保障を確保する為同政府が必要と認める一切の手段を講ずるを余儀なくせらるべき旨言明することを必要なりと思考す。[12]」
- ^ 二人の階級は大将(キンメル)と中将(ショート)だったが、少将として退役した[20]。ただし退役前の階級は職務に付随する「テンポラリー・ランク」であり、退役後の「パーマネント・ランク」は二人とも元から少将だった[20]。ところが、第二次世界大戦後の1947年の「軍人人事法」とその後の大統領令により、戦争中に退役した将官は最高位のテンポラリー・ランクをパーマネント・ランクにすることが可能となったにもかかわらず、二人はその恩恵に浴することがなかった[20]。これを回復しようというのがロスらの主張である[20]。
- ^ 山本五十六はこの時期にハワイ攻撃のプランを大西瀧治郎(当時第十一航空艦隊参謀長)に明かして具体的研究を命じたばかりであり、それを知っていたのは山本、大西と前年に山本から書簡で伝えられていた海軍大臣の及川古志郎だけであった[23]。
- ^ 保管場所について今野勉 (2001)は「連邦議事堂内」とし[24]、須藤眞志 (2004)は「陸軍省」とする[25]。
- ^ ゾルゲは独ソ、日ソに対しての諜報活動を行い、ソ連に関してのドイツと日本の軍事行動について調べていた。ゾルゲはソ連人でありながら、ドイツナチス党に偽装入党した上で、ジャーナリストとして入国し(後に「フランクフルター・ツァイトゥング」の寄稿者の地位を得る)、駐日ドイツ大使のオイゲン・オットの信頼を得て、情報を収集していた。その情報は詳細かつ正確で6月のソ連侵攻も伝えていたほどである。日本については尾崎秀実から情報を得て、それを元に分析してソ連に送っていた。米英については「日華事変と日独同盟政策に加え、日本が南方政策を打ち出したことにより、日本と米英の関係は悪化し、この両国は日本の敵となった。」ソ連に対しては「1941年の夏、または秋に日本がソ連攻撃に出ることはない、少なくとも翌春までにはない。」と『ゾルゲの獄中手記』(山手書房新社、1990年)で書いている[25]。
- ^ ゾルゲは「尾崎が持っていた重要な情報源は近衛公爵を取り巻く、側近たちで、風見章、西園寺公一、犬養健、後藤隆之助、尾崎秀実らによる情報源を得ていた。」と述べている[25]。近衛側近の彼らは、「昭和研究会」のメンバーでもあり、その情報の中身は軍事的、および政治的情報は少なかったといわれる[25]。
- ^ 須藤眞志は、この説を採る論者が情報の出所をゾルゲに違いないと主張しているとする[29]。
- ^ この情報のソースは、後述する第八艦隊の藤田参謀による日誌である[31]。
- ^ この内容については、今野勉の著書にも要約が紹介されている[35]。
- ^ この邦訳版では著者名の表記は「ドゥシュコ・ポポフ」となっており、今野勉 (2001)はその表記を、また須藤眞志 (2004)は「ドスコ・ポポフ」の表記を使用している。
- ^ 日本側では海軍士官の吉川猛夫を、森村正という名前でスパイとして送り込み必要な情報は送られていた[42]。また、1939年の時点で広島文理科大学の大坪政吉に詳細な真珠湾の地形図を作らせている[42]。
- ^ この内容は聴取翌日のニューヨーク・タイムス記事からの引用。「それは、全員に、その時点から、真珠湾爆撃のまさにそのときまで、絶対的な警戒態勢を敷かせるものだった。」と続くが、1941年11月26日の時点で「真珠湾を爆撃する」と知っていたと証言しているわけではない[43]。
- ^ 桑港の諜報員は八幡丸の無線局長T・ハラダから日本商船暗号「辛」(海軍暗号書)を四万ドルで買った[47]。
- ^ ジョセフ・ロシュフォートの「広範な航空作戦」については1941年??月22日[いつ?]の通信概要より、RG80,PHLO,BOX41,アメリカ国立公文書館アーカイブ・ツー参照。スティネットのファイルにコピーがある。
- ^ 実際に真珠湾攻撃に参加した6隻の空母が所属していたのは第一航空艦隊である。
- ^ 9月の早い時期にシアトルの第13海軍区(COM13)司令官チャールズ・フリーマン少将は「敵の潜水艦の脅威」について言及、北太平洋とアラスカの偵察機の飛行を実施して、「奇襲を予防する」許可を海軍作戦部長のスターク大将に求めた。フリーマンに許可はなかった。RG187,COM13,Confidential通し番号121129[要出典],1941年9月17日付、シアトル国立公文書館参照。スティネットのファイルにコピーがある。
- ^ ロシュフォートのハワイ方面へ先行する日本の潜水艦の追跡証言は1941年1月24日、25日、26日の通信概要日報[要文献特定詳細情報]参照。アメリカ国立公文書館アーカイブ・ツー。
- ^ 通信内容ではなく、確認できる具体的形式(通信量、電報の優先度、呼出符号(発信者、着信者、通報先)、通信容量、電波、通信系、通信時間、送信機の形式や特徴、電信員のクセ)の分析から敵部隊の概要(編成、所在、行動)を推測すること[50]。
- ^ マッカラムは牧師の子として日本で生まれ、1921年アナポリス海軍士官学校卒業生で、少中尉時代(大正末期)に日本語の語学将校として日本に駐在し、以降情報分野の任務に携わる[55]。1940年から1941年に海軍情報部(ONI)極東班長[55]。秦郁彦は「親日家だった形跡はなく、むしろ反日的傾向の人物と言ってよさそうだ」と述べている[55]。
- ^ a b c 須藤眞志 2004, pp. 32–33.
- ^ 岩島久夫「解説―『ルーズベルト謀略説』の背景と事実」今野勉(2001)、pp478-488
- ^ a b c 須藤眞志 2004, pp. 34–37.
- ^ 須藤眞志 2004, pp. 45–48.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 須藤眞志 2004, pp. 48–53.
- ^ 徳本栄一郎 2009, pp. 60–71.
- ^ a b c d e f g h i j k 須藤眞志 2004, pp. 53–59.
- ^ 秦郁彦(編) 2001, pp. 40–47.
- ^ 岩間敏 2010, pp. 73–75.
- ^ 岩間敏 2010, pp. 76–80.
- ^ a b c 須藤眞志 2004, pp. 60–64.
- ^ 昭和16年(1941年)8月17日(米時間)野村大使・ルーズヴェルト米大統領第4回会談、ルーズヴェルトは7月に中断した非公式会談を再開するためには、日本側の基本的態度及び政策の明確化が先決と回答 - 外交史料館(外交文書に見る日米交渉)
- ^ a b c 須藤眞志 2004, pp. 41–42.
- ^ a b c 加瀬英明/ヘンリー・S・ストークス『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』祥伝社〈祥伝社新書〉、2012年、[要ページ番号]
- ^ a b 須藤眞志 2004, pp. 66–67.
- ^ a b 須藤眞志 2004, pp. 70–73.
- ^ 今野勉 2001, pp. 357–358.
- ^ a b c 今野勉 2001, pp. 363–364.
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- ^ a b c d e f g h i 須藤眞志 2004, pp. 78–82.
- ^ Senate Clears 2 Pearl Harbor 'Scapegoats' ニューヨーク・タイムズ 1999年5月26日記事(英文)
- ^ 徳本 2009, pp. 60–71.
- ^ a b c d e f 今野勉 2001, pp. 277-278、308-310.
- ^ a b c d e f g 今野勉 2001, pp. 176–178.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 須藤眞志 2004, pp. 134–139.
- ^ NHK取材班、下斗米伸夫 『国際スパイ ゾルゲの真実』角川書店〈角川文庫〉、1995年、p.168
- ^ 今野勉 2001, pp. 179–180.
- ^ 今野勉 2001, pp. 178–179.
- ^ a b c d e f g 須藤眞志 2004, pp. 139–143.
- ^ 『戦史叢書 10 ハワイ作戦 オンライン版』(該当箇所は145フレーム目)
- ^ a b 今野勉 2001, pp. 183–185.
- ^ a b c d 今野勉 2001, pp. 187–188.
- ^ 今野勉 2001, pp. 188–189.
- ^ 北沢法隆「機動部隊とソ連船遭遇説を検証する」『軍事史学』106・107合併号、錦正社、1991年12月、208-221頁。 筆者は当時防衛研修所戦史室勤務
- ^ 今野勉 2001, pp. 189–191.
- ^ a b c 今野勉 2001, pp. 200–210.
- ^ a b c d e f g 須藤眞志 2004, pp. 143–146.
- ^ 今野勉 2001, pp. 221–222.
- ^ 今野勉 2001, pp. 212–213.
- ^ 今野勉 2001, pp. 214–220.
- ^ 今野勉 2001, pp. 222–226.
- ^ a b c d 今野勉 2001, pp. 226–229.
- ^ a b c d 今野勉 2001, pp. 230–236.
- ^ 今野勉 2001, pp. 271–276.
- ^ a b 秦郁彦『陰謀史観』新潮社、2012年、185頁。
- ^ a b 秦郁彦『陰謀史観』新潮社、2012年、186、187頁。
- ^ 『真珠湾の真実-欺瞞の日』[要ページ番号]
- ^ 秦郁彦(編) 2001, pp. 164–167この内容は左近允尚敏「通信情報戦から見た真珠湾攻撃」の章に記載。
- ^ 秦郁彦『陰謀史観』新潮社、2012年、179頁。
- ^ 秦郁彦(編) 2001, p. 148この内容は左近允尚敏「通信情報戦から見た真珠湾攻撃」の章に記載。
- ^ a b c 秦郁彦(編) 2001, pp. 168–170この内容は左近允尚敏「通信情報戦から見た真珠湾攻撃」の章に記載。
- ^ 秦郁彦(編) 2001, pp. 174–179この内容は左近允尚敏「通信情報戦から見た真珠湾攻撃」の章に記載。
- ^ a b c d e f g h 秦郁彦(編) 2001, pp. 230–234この内容は秦郁彦「スティネット『欺瞞の日』の欺瞞」の章に記載。
- ^ 秦郁彦(編) 2001, pp. 247–251この内容は秦郁彦「スティネット『欺瞞の日』の欺瞞」の章に記載。
- ^ a b c d e f g h i j 秦郁彦(編) 2001, pp. 221–227この内容は秦郁彦「スティネット『欺瞞の日』の欺瞞」の章に記載。
- ^ a b c d 秦郁彦(編) 2001, pp. 228–230この内容は秦郁彦「スティネット『欺瞞の日』の欺瞞」の章に記載。
- ^ a b c d 須藤眞志 2004, pp. 116–119.
- ^ a b 須藤眞志 2004, pp. 119–122.
- ^ a b c 須藤眞志 2004, pp. 126–127.
- ^ 須藤眞志 2004, pp. 122–123.
- ^ 秦郁彦(編) 2001, pp. 236–239この内容は秦郁彦「スティネット『欺瞞の日』の欺瞞」の章に記載。
- ^ 秦郁彦(編) 2001, pp. 234–239この内容は秦郁彦「スティネット『欺瞞の日』の欺瞞」の章に記載。
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