作風と作品
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「ジョージ・テンプルトン・ストロング」の記事における「作風と作品」の解説
ストロングは、アカデミックなライプツィヒと、よりロマンティックなフランクフルト、進歩主義と新ドイツ学派の牙城ヴァイマルというように、ドイツの性格の異なる様々な音楽都市で学んだことにより、幅広く柔軟な音楽的趣味を身に付けた。明晰さと職人的完成を重んじる一方で、独創性と創意工夫を尊重する指定となって現れている。この姿勢は、ストロングが支持した同時代の作曲家についても当てはまる。ストロングは、グラズノフやラヴェルに敬意を払い、マーラーやR.シュトラウスを情熱的に支持した。一方、アンセルメの友人ではあったものの、ストラヴィンスキー作品には理解が持てなかった。 ストロングは、ピアノ曲や歌曲が創作の中心だったマクダウェルとは対照的に、アンサンブル作品、とりわけ管弦楽曲の作曲を得意とした。一方、マクダウェルがアメリカ帰国後に、アメリカの様々な民族の民謡に影響されたのに対して、帰国が短かったストロングは、民族主義的な作風にほとんど興味を示さず、フォスター作品の編曲を手がけたり、一時的にマクダウェルの手法で北米大陸先住民の民謡を改作したにすぎなかった。 作曲家としてはおおむねロマン主義音楽の伝統上にある。ロッシーニやベルリオーズ、ラフに影響を受け、オーケストレーションは重厚華麗である。しかし、ペシミスティックな題材や、劇的で不安な表現への好みという点では、むしろしばしば精神的にチャイコフスキーとのつながりを指摘することもできよう。とりわけ長編の交響詩《アーサー王》(1916年)は、音色の好みや表現の質において、しばしば《悲愴交響曲》を連想させずにおかない。しかも、マクダウェルやチャドウィックに比べると旋律の息が長いのも、チャイコフスキーを連想させる。一方でストロングの交響詩は、しばしば大変に長大であるにもかかわらず楽曲構成が緊密で、曲の展開が論理的である。
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作風と作品
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「ヴァシリー・カリンニコフ」の記事における「作風と作品」の解説
カリンニコフは、2つの交響曲といくつかの付随音楽、そして多数の歌曲を遺した。いずれの作品もみな、ロシア民謡の特徴に染め抜かれている。2つの交響曲、なかでも『交響曲第1番 ト短調』は20世紀初頭に頻繁に演奏された。近年カリンニコフの名声は消えかかっていたものの、交響曲は音源で接することが可能である。 カリンニコフの作風は、おおむねチャイコフスキーに倣って西欧的な楽曲構成法を採っていながらも、旋律や和声法に民謡や民族音楽の影響が自明であるように、国民楽派(「ロシア五人組」)からの影響も無視できない。このようにカリンニコフは、モスクワ楽派とペテルブルク楽派のいずれかに与するのではなく、その両方の伝統の美点を折衷した作曲家であった。折衷的という点においてグラズノフに似ていなくもないが、よりアカデミックで、洗練された作曲技法と緻密な構成を追究し続けた点でグラズノフはカリンニコフと異なっている。1899年からオペラ『1812年』の作曲にも着手したが、未完に終わった。
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作風と作品
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ハドリーは後期ロマン派音楽の作曲家であり、恩師チャドウィック譲りの民族主義的な傾向と、トゥイレ経由で掌握したR.シュトラウスばりの豪放華麗な音響感覚によって、数々の優れた管弦楽曲を残した。交響曲では、好んで標題交響曲を書いている。異国趣味を題材にした作品も多い。管弦楽では、しばしば拡張された調性によっている。一方、室内楽は、より伝統的なブラームスを思わせる音楽語法で、侘しさを切々と歌い上げる作風のものが主である。ともすれば、この時期のアメリカ人作曲家がブラームスを手本にした場合、重苦しさや物悲しさが強調されがちなのに対して、ハドリーの室内楽は柔和で多感な表情を持ち、旋律的な魅力をたたえ、全般的に洗練されており、もっと見直されてよい。
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作風と作品
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ジャン・レーが好んだ題材は隠秘学、異教神話、古代文明、SF的要素、ミステリーの要素であった。彼の本領は(他にも海洋冒険小説などを書いているものの)これらを盛り込んだ幻想小説にあった。レーは、関心のある同業者として1929年にフランスのジャック・ノディエ、モーリス・ルナール(Maurice Renard)、ベルギーのJ・H・ロニー、イギリスのハーバート・ジョージ・ウェルズ、アーサー・コナン・ドイル、M・P・シール(M. P. Shiel)を挙げている。また仏文学者榊原晃三によるとレーの作風は、チャールズ・ディケンズ、ジョゼフ・コンラッドの影響を強く受けているという。 1943年の『マルペルチュイ』は、古代文明テーマの作品で、隠秘学者の呪法によって近代のベルギーで延命し続けていた古代ギリシアの神々を描いた。 戦前に始まった長大な(100編を超える)シリーズ「ハリー・ディクソン」ものは、副題「アメリカのシャーロック・ホームズ」に示されるようにホームズ譚へのオマージュであり探偵小説であるが、マッド・サイエンティスト、古代文明の遺物、異教の呪術などの題材を扱い、多分にSF的でもあった。実は、本来ドイツ語で書かれていたシリーズなのだが、仏訳を請け負ったレーが独自の改変を行なったところ好評を得たためオリジナルを創作するようになったものである。1980年代には6編が日本語に翻訳され、3冊にまとめられ出版された(下記リスト参照)。 『新カンタベリー物語』(1944年)は、『カンタベリー物語』の宿を訪れた人物がチョーサーや牡猫ムルに出会い、居合わせた人々の奇妙で多彩な話を聞くという短編集である。
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作風と作品
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「ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク」の記事における「作風と作品」の解説
ヘルツォーゲンベルクは博識かつ確かな才能を備えた作曲家であり、またブラームスの主題による変奏曲を最初に書いた(四手ピアノのための作品23、1876年作曲。ブラームスの歌曲《Die Trauernde 》作品7-5を主題とする)人物だが、ブラームスはエリザベートの誘いにもかかわらずヘルツォーゲンベルクの作品へほとんど称賛を示さなかった。ヘルツォーゲンベルクの作風はしばしば単なるブラームスのエピゴーネンに過ぎないと言われてきたが、彼の作品の大半において、ブラームスからのあからさまな影響はほぼ、あるいは全く見出せない。一方、ブラームスとの知遇を得る前に作曲された初期作品にはブラームスに通じる特徴が見られる。 3つの交響曲(標題交響曲《オデュッセウス Odysseus 》と番号付き交響曲2曲)をはじめ、多くの室内楽曲、合唱曲、ピアノ曲、歌曲集などを遺した。初期の2台ピアノのための《主題と変奏》作品13(1870年)はこのジャンルにおいて注目に値する作品である。カンタータを含む合唱曲のうちで重要な作品は、亡き妻を偲ぶ《葬礼 Todtenfeier》作品80(1893年)や、シュピッタ追悼のための《ミサ曲 ホ長調》作品90(1894年)、フリードリヒ・シュピッタの台本による《クリスマス・オラトリオ Die Geburt Christi》作品90(1894年)が挙げられる。
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作風と作品
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「アレッサンドロ・ストラデッラ」の記事における「作風と作品」の解説
ストラデッラは生前すこぶる影響力のある作曲家であったが、18世紀になるとその名声は、コレッリやヴィヴァルディの陰に隠れてしまった。おそらくストラデッラの一番の重要性は、コンチェルト・グロッソの原理を作り出した点にある。「コンチェルト・グロッソ」という名称を初めて出版作品で用いたのは、コレッリの作品6の例まで俟たなければならないが、ストラデッラはその原理を、自作の《弦楽のためのソナタSonate di viole 》やオラトリオ、カンタータの一部において、はっきりと利用している。ストラデッラとコレッリは知り合いだったので、直接的な影響力はあったであろう。 ストラデッラは少なくとも6曲のオペラと、おびただしい数のカンタータやオラトリオを作曲した。さらに、27曲の器楽曲を作曲しており、その多くは、典型的な教会ソナタの原理を踏まえている。
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作風と作品
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「エルンスト・クルシェネク」の記事における「作風と作品」の解説
クルシェネクの作品は、多種多彩である。初期作品は、恩師シュレーカーの影響下に後期ロマン主義音楽の伝統にのっとっている。その後はバルトークや新ウィーン楽派に影響され、無調による作曲に取り組むが、パリを訪れストラヴィンスキーやフランス六人組と親交を結んだことから、新古典主義音楽やジャズの音楽様式に影響され始める。 ジャズに影響された1926年の歌劇《ジョニーは弾き始める Jonny spielt auf 》が、ソ連邦を含むヨーロッパ各地で演奏されると、たちまちクルシェネクは1920年代の寵児となった。この作品はナチスによって指弾されたにもかかわらず、その名がオーストリアのタバコの銘柄「ジョニー」にも採用されたほどの人気であった。 1930年代はオーストリアに帰国するとともに、シューベルトの影響下にロマン主義音楽の伝統に復帰、連作歌曲集《オーストリア・アルプスからの旅日記 Reisebuch aus den österreichischen Alpen 》(1929年)は、この時期の新ロマン主義様式の代表例となっている。 亡命に前後する時期にシェーンベルク流儀の十二音技法に転向。歌劇《カール5世 Karl V 》(1930-1933年、出版1938年)は、後期様式の典型である十二音技法が完全に用いられた最初の作品である(史上初の全編十二音技法を用いた本格的な歌劇でもある…この時点でシェーンベルクは1幕の《今日から明日まで》しか手掛けていなかった)。渡米後は、とりわけ第二次世界大戦後は、電子音楽や偶然性の音楽にもとりくんだ。 このようにクルシェネクの作風は、生涯を通じて(特に彼が同時代を代表する作曲家として認知されていた前期の作品を中心に見た場合)変化に富み、ある意味ではストラヴィンスキー以上の「カメレオン作曲家」と言いうる。ヨーロッパ時代はヒンデミットに私淑し、「実用音楽」というその理念に共鳴したにもかかわらず、新ウィーン楽派に鞍替えしてからはテオドール・アドルノとともにヒンデミットを論難するようになった。このように作曲家・音楽美学者としてのクルシェネクは、伝統から前衛の間で揺れ動いた。 指揮者のミトロプーロスから「聴衆が君を忘れたのは、君が聴衆を忘れているからだ」と批判されたが、それはクルシェネクの作品が理解しにくいとか聞きづらいという意味ではなく、めまぐるしい作風の転換のために、聴衆にとって正体がつかみ難いという意味であったろう。しかしながらクルシェネクの作品は、新しい作曲技法を用いた後期作品においてさえ、自然な抒情性や愉悦感が保たれており、新ウィーン楽派の作曲家の中では、誰よりもアルバン・ベルクに近い。 後期作品のそのような特色を端的に示す例として、無伴奏混声合唱曲集《預言者エレミアの哀歌 Lamentatio Jeremiae Prophetae 》作品93(1941年)や、グレン・グールドの演奏で名高い《ピアノ・ソナタ第3番》がある。とはいえ後者について作曲者自身は、グールドがプロコフィエフ作品のような「ヴィルトゥオーゾ作品」と解釈していると非難し、正統的な解釈を後世に残すべく、ピアニストのジェフリー・ダグラス・マッジに託して、その録音を監修した。しかしながら、クルシェネクのこの目論見は、目下のところ成功したとは言いがたい。
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