バルトーク【Bartók Béla】
バルトーク
1881年現在のハンガリー南部に生まれ、母からピアノの手ほどきを受ける。18歳でブダペスト音楽アカデミーに入学し、ピアノ、作曲を学ぶ。ピアノ奏者として頭角を現すかたわら、当事のオーストリア・ハンガリー二重帝国からのハンガリー民族独立の思潮に共鳴し、ハンガリー独自の音楽の研究に力を注ぐようになる。民謡採集に積極的に取組み、分析し、録音や出版などで保存作業を生涯の仕事とするようになった。
ピアノ作品にも民謡をモチーフにしたものは多くあるが、音列手法や独自の倍音列音階などを作曲を取り入れ、国際的に現代音楽をリードする存在であった。音を素材としてとらえ、リズムや旋律が力強く表出するが、作風は決して前衛に傾き過ぎることなく、古典的部分と個性的な特徴がうまく融合されていった。
ヨーロッパにナチズムの影がさし政情が不安定になると、米国への移住を決意。1940年からコロンビア大学で作曲・研究を続け、45年ニューヨークで息を引取った。
バルトーク・ベーラ
(バルトーク から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 16:54 UTC 版)
バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ(Bartók Béla Viktor János [ˈbɒrtoːkˌbe̝ːlɒˈviktorˌjɑ̈ːnoʃ], 1881年3月25日 - 1945年9月26日)は、ハンガリー王国のバーンシャーグ地方のナジセントミクローシュに生まれ、ニューヨークで没したクラシック音楽の作曲家、ピアニスト、民俗音楽研究家。
注釈
- ^ 1907年頃、バルトークはコダーイを通じて、当時ハンガリーでは知られていなかったクロード・ドビュッシーの音楽を知ることとなる[1]。
- ^ 息子ペーテルはまだ年端もいかない頃の自身が、父親がピアノ教授としての仕事にうんざりしていることを人前でうっかり明かしてしまい、父親を困らせたエピソードを回想録で語っている。
- ^ ジャズの「コルトレーン・チェンジズ」と背景の理論はほとんど同じである
- ^ バルトークは周囲が語るように規則正しく几帳面な人物で、自作曲のスケッチなども破棄せず残していた。
出典
- ^ バルトーク・ベーラ・著、岩城馨・訳『バルトーク音楽論集』あごら叢書、1988年5月25日、ISBN978-4275007988、p.19
- ^ 著者吉澤ヴィルヘルム、発行者矢野恵二『ピアニストガイド』株式会社青弓社、印刷所・製本所厚徳所、2006年2月10日、251ページ、ISBN 4-7872-7208-X
- ^ 鹿島正裕「1919年のハンガリー社会主義 : 評議会国家とその国内政策」『アジア経済』第18巻第8号、アジア経済研究所、1977年8月、30-46頁、ISSN 0002-2942、NAID 120000807064。
- ^ P.バルトーク 1992, pp. 136–138.
- ^ バルトークの次男ペーテルの回想では、1943年の時点では印税収入や演奏会での収入が途絶えていたこと、治療費が高額であることから、一家の収入はハンガリー時代の数分の一になっていた[4]
- ^ [1]
- ^ [2]
- ^ “(4132) Bartok = 1988 EH”. MPC. 2021年10月3日閲覧。
- 1 バルトーク・ベーラとは
- 2 バルトーク・ベーラの概要
- 3 生涯
- 4 作風
- 5 ピアニストとして
- 6 参考文献・資料
- 7 その他
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