チャイコフスキー【Pyotr Il'ich Chaykovskiy】
チャイコフスキー
ロシア、ウラル地方のヴォトキンスクで鉱山技師の父の元に生まれた。家族に職業音楽家はいないが、父がフルートを演奏し、母もピアノを弾くなど音楽的な素養があった。1859年から法務省の官吏になるが63年には辞職。このころ新設されたペテルブルク音楽院に所属しており、院長のアントン・ルビンシュタインに管弦楽法を学んだ。卒業後アントンの弟、ピアニストのニコライ・ルビンシュタインの招きでモスクワ音楽院の講師となった。ニコライとはその後親友として交流した。
1870年代は結婚(1877年)の失敗から精神的に不安定となるなど危機的な状況も迎えた。しかし創作力は旺盛で1868年の「ロメオとジュリエット」に始まって、「ピアノ協奏曲第1番(1874-75)」、「交響曲第4番(1877)」などの傑作が生み出されて名声をもたらした。
チャイコフスキー
ピョートル・チャイコフスキー
(チャイコフスキー から転送)
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ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(露: Пётр Ильич Чайковский [ˈpʲɵtr ɪlʲˈjitɕ tɕɪjˈkofskʲɪj] 発音を聞く ;ラテン文字表記の例:PyotrあるいはPeter Ilyich Tchaikovsky、1840年5月7日(ユリウス暦では4月25日) - 1893年11月6日(ユリウス暦10月25日))は、ロシアの作曲家。
注釈
出典
- ^ Poznansky, Alexander (March 1992), Tchaikovsky: The Quest for the Inner Man, Schirmer Books, ISBN 0028718852
- ^ Чайковский - Словарь Русских фамилий (ロシア語)
- ^ Holden, 4.
- ^ “Pyotr Tchaikovsky, a Ukrainian by creative spirit”. The Day. 2021年1月18日閲覧。
- ^ a b Brown, The Early Years, 19
- ^ Poznansky, Eyes, 1; Holden, 5.
- ^ a b c 井上(1991)、1104頁
- ^ a b c 森田(1982)、1471頁
- ^ Holden, 202.
- ^ Wiley, Tchaikovsky, 6.
- ^ Brown, The Early Years, 27; Holden, 6–8.
- ^ Brown, The Early Years, 25–26; Wiley, Tchaikovsky, 7.
- ^ Brown, The Early Years, 31; Wiley, Tchaikovsky, 8.
- ^ a b ロバート・ジーグラー、スミソニアン協会監修、金澤正剛日本語版監修『世界の音楽大図鑑』、河出書房新社、2014年10月30日、183頁
- ^ a b c サハロワ(1991)
- ^ Holden, 15; Poznansky, Quest, 11–12.
- ^ Holden, 24–25; Warrack, Tchaikovsky, 31.
- ^ Poznansky, Eyes, 17.
- ^ 黒川祐次 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』中央公論新社〈中公新書; 1655〉、東京、2002年(日本語)、139頁 ISBN 4-121-01655-6
- ^ a b c d 井上(1991)、1105頁
- ^ ロバート・ジーグラー、スミソニアン協会監修、金澤正剛日本語版監修『世界の音楽大図鑑』、河出書房新社、2014年10月30日、182頁
- ^ a b c 森田(1982)、1472頁
- ^ 中河原理『名曲鑑賞辞典』東京堂出版、1981年4月25日、110頁。
- ^ 森田(1982)、1473頁
- ^ 伊藤(2005)、172頁
- ^ 伊藤(2005)、180頁
- ^ 伊藤(2005)、179頁
- ^ Steinberg, Concerto, 486
- ^ ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、ガリーナ・ヴィシネフスカヤ著、クロード・サミュエル編 『ロシア・音楽・自由』 田中淳一訳、みすず書房、1987年、89頁。
- ^ Poznansky, Eyes, 216.
- ^ “バラ関連ポータルサイト「NOIBARA」”. 2020年9月16日閲覧。
- ^ “(2266) Tchaikovsky = 1937 VM = 1937 VQ = 1943 UH = 1951 AY1 = 1955 QY = 1962 WM2 = 1973 QH = 1974 VK”. MPC. 2021年9月25日閲覧。
チャイコフスキー
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「チャイコフスキーとロシア5人組」の記事における「チャイコフスキー」の解説
「ピョートル・チャイコフスキー」も参照 チャイコフスキーは1840年に現在のウドムルト共和国、当時はロシア帝国領ヴャトカ州であった小さな町ヴォトキンスクに生まれた。早くから才能を見せた彼は5歳でピアノのレッスンを開始し、3年もしないうちに先生と同程度に手際よく音楽を理解するまでになった。しかし、両親が彼の音楽的才能にかける情熱はまもなく冷めてしまう。1850年に一家はチャイコフスキーをサンクトペテルブルクの帝国法律学校へとやることを決める。この学校の主な対象は貴族や上流階級ではなく、彼は公務員としてのキャリアを歩みはじめる。受け入れ最少年齢が12歳であったため、チャイコフスキーはサンクトペテルブルクにある帝国法律学校の予備学校の寮に入ることになった。これは一家が住むアラパエフスク(英語版)の家からは約1,300キロメートル離れていた。受け入れ年齢に到達したチャイコフスキーは帝国法律学校に入学、7年間の修習課程が始まった。 学校では音楽は優先事項ではなかったが、チャイコフスキーは級友と連れだって日常的に劇場やオペラ座に足を運んでいた。お気に入りはロッシーニ、ベッリーニ、ヴェルディそしてモーツァルトであった。学校には音楽の授業を受け持つためにピアノ製作者のフランツ・ベッカーが時おり訪れていた。チャイコフスキーがここで受けた正式な音楽の指導はこれだけだった。1855年からは父のイリヤ・チャイコフスキーが出資してニュルンベルク出身の著名なピアノ指導者ルドルフ・クンディンガーの指導を受けられるようになった。息子が音楽でキャリアを積むことに関して父がクンディンガーに尋ねると、彼はピョートルが優れた演奏家、ましてや作曲家になりそうな可能性は全く見られないと応じた。チャイコフスキーは課程を修了し、法務省の職に応募するようにと言われたのである。 1859年5月25日に卒業したチャイコフスキーは公務員の階級の中でも低い所に位置する名義参事官に就任した。6月15日にはサンクトペテルブルクの法務省に登用される。6か月後には副手、その2か月後には係長へと昇進している。続く3年間の公務員生活はこの役職に留まることになる。 1861年、チャイコフスキーはロシア音楽協会主催、ニコライ・ザレンバを講師に据えた音楽理論の講義に出席し、1年後にはザレンバを追ってサンクトペテルブルク音楽院へと入学している。心の中では「公務員ではなく音楽家になる運命であると自分が確信できるまで」官職は辞めないと決めてのことである。1862年から1865年にかけてザレンバの下で和声と対位法、フーガを学び、ルビンシテインには管弦楽法と作曲の指導を仰いだ。1863年にはついに公務員の職を辞して音楽の勉強に全力を注ぐようになり、1865年12月に晴れて卒業を迎えている。
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チャイコフスキー
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「エフゲニー・ムラヴィンスキー」の記事における「チャイコフスキー」の解説
1956年および1960年にドイツ・グラモフォンにより録音されたチャイコフスキーの交響曲が有名である。1956年には交響曲第5番、第6番をモノラルで、1960年には第4~6番の3曲をステレオでレコーディングしている。特に1960年の録音はムラヴィンスキーとレニングラードフィルのコンビの実力を西側諸国にも知らしめた名盤とされており、幾度も再発売されている。後期の3交響曲は演奏頻度が高く、数多くのライヴ録音が残されている。特に交響曲第5番はムラヴィンスキーが生涯を通じて最も多く演奏した曲目であり、ムラヴィンスキーの演奏活動のほぼ全年代にわたる録音が部分録音を含め18種と大量に残されており、ムラヴィンスキーの解釈の変遷をたどることができる。 他にも幻想曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』や『くるみ割り人形』、『イタリア奇想曲』、『眠れる森の美女』、『弦楽セレナーデ』等の録音も残している。 また、ピアノ協奏曲第1番はリヒテル他、有名ソリストと共演した録音が残されている。
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チャイコフスキー
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「ハーメルンのバイオリン弾きの登場人物」の記事における「チャイコフスキー」の解説
実在する音楽家のはずなのだが、ハーメルの「花のワルツ」に感受性を刺激されたフルートの後ろにスタンドのように現れ憑依し、憤怒の形相で格闘技を駆使してバルーンを倒した。必殺技は「チャイコフスキーキック」「チャイコフスキーパンチ」「チャイコフスキースープレックス」。
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「チャイコフスキー」の例文・使い方・用例・文例
- 上原さんがチャイコフスキー国際コンクールで優勝
- 岐阜県出身のピアニスト,上原彩(あや)子(こ)さんが第12回チャイコフスキー国際コンクールで優勝した。
- 6月21日の本選で,上原さんはチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」とラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」を演奏した。
- 2002年,チャイコフスキー国際コンクールで1位を獲得した初の日本人ピアニストとなる。
- 私はチャイコフスキー国際コンクールに2度出場しました。
- 神(かみ)尾(お)真(ま)由(ゆ)子(こ)さんがチャイコフスキー国際コンクールで優勝
- 神(かみ)尾(お)真(ま)由(ゆ)子(こ)さん(21)が第13回チャイコフスキー国際コンクールのバイオリン部門で優勝した。
- 神尾さんは,チャイコフスキーコンクールで優勝した4人目の日本人音楽家で,2人目の日本人バイオリン奏者となった。
チャイコフスキーと同じ種類の言葉
作曲家に関連する言葉 | チェルニー チマローザ チャイコフスキー テレマン デュカス |
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