音楽様式
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音楽評論家のハロルド・ショーンバーグは著書『大作曲家の生涯』の中でニールセンの作品の幅広さ、力強いリズム、惜しみない管弦楽法、そして彼の個性を強調している。ジャン・シベリウスと比較しつつ、ショーンバーグはニールセンには「同じだけの発展性、遥かに大きな力、そしてより普遍的なメッセージ」が備わっていると考えている。オックスフォード大学音楽科教授のダニエル・M・グリムリーはニールセンを「20世紀の音楽でも指折りの陽気で、人生肯定的、そして不器用な声」であるとし、その理由が彼の作品の「旋律の豊かさと和声の活力」のおかげであると述べている。『Carl Nielsen's Voice: His Songs in Context』の著者であるアン=マリー・レイノルズは「彼の音楽の全ては声楽を発祥と」しており、歌曲を書き続けたことがニールセンの作曲家としての発展に強く影響を与えた、というロバート・シンプソンの見方を引用している。 デンマークの社会学者であるベネディクデ・ブリンガ(Benedikte Brincker)は、母国におけるニールセンと彼の音楽に対する認識が国際的な評価とはかなり異なっていると見ている。彼の民謡への興味と背景知識はデンマーク人に特別共鳴するのである。さらにこの傾向は1930年代の愛国運動期、及び第二次世界大戦中に高められた。同時期にはデンマーク人にとって歌うことが敵のドイツ人たちと自分たちを識別する重要な根拠だったのである。ニールセンの歌曲はデンマークと文化と教育の中で引き続き重要な位置を占めている。音楽学者のニールス・クラッベは、デンマークの作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンの寓話に関連づけ、デンマークにおける大衆のニールセン像は「みにくいアヒルの子症候群」のようだと表現する。すなわち「貧しい少年が(中略)逆境と倹約を経験し(中略)コペンハーゲンへと乗り込み(中略)無冠の王者の地位を獲得するに至るのだ。」このため、デンマーク国外でのニールセンは主として管弦楽作品とオペラ『仮面舞踏会』の作曲家である一方、国内ではそれ以上に国民の象徴なのである。2006年にデンマーク文化省が12曲の最も偉大なデンマークの音楽作品を発表した際には、これらの2つの側面が公式にひとつにまとめられた;選ばれたのは『仮面舞踏会』、交響曲第4番、そして2つのデンマークの歌だったのである。クラッベは修辞的な問いかけを行う。「ニールセンの中の『国民性』は特定の主題、和声、音響、形式その他の音楽の中に表出され得るものなのだろうか、それともそれは純粋に受容史から形作られるものなのだろうか。」 ニールセン本人は後期ロマン派のドイツ音楽や音楽における愛国心に対して曖昧な態度を取っていた。1909年にオランダの作曲家であるユリウス・レントゲンに宛ててこう綴っている。「近頃のドイツ人の技術面での技量には驚かされています。複雑化をこうして嬉々として行っていますが、全てそのもの自身の疲弊をもたらすに違いないと思わずにはいられません。私は純粋に古風な美徳に則った全く新しい芸術の到来を予見しています。ユニゾンで歌われる歌についてどう思われますか。我々は立ち戻らねばなりません(中略)純粋さ、清澄さへと。」一方で、1925年には次のように記している。「愛国心ほどに音楽を破壊するものはない(中略)それに頼みに応じて愛国的音楽を生み出すことなど出来ようがない。」 ニールセンはルネサンスのポリフォニーを詳細に研究しており、彼の音楽に含まれる旋律と和声にはこれによって説明できるものもある。3つのモテット 作品55がこの興味を表す好例である。デンマーク国外の批評家にとっては、ニールセンの音楽は当初新古典主義的な響きを持っていたものの、彼が独自の取り組みを発展させるに従い次第に現代的になっていった。それは作家で作曲家のロバート・シンプソンが言うところの発展的調性、すなわちある調から別の調への移行である。概してニールセンの音楽は開始の調とは異なる調性で終結する可能性を有するものであるが、時にそれは交響曲においてなされたのと同じく苦心の結果なのである。一方、彼の民謡での活動がどれほどそうした要素に負うところがあるのかについては論争となっている。一部の評論家は彼のリズム、アッチャッカトゥーラやアッポッジャトゥーラ、もしくは作品中で頻用される短七度、短三度を指してデンマークの典型であると述べている。作曲者本人は次のように記した。「私が思うに、まず音楽へのより深い関心を呼び起こすものは音程である。(中略)春にカッコーの声を聞く我々に驚きと喜びをもたらすものはその音程なのである。もし鳴き声がひとつの音だけでできていたとしたら魅力は減じていたことだろう。」 音楽様式に対するニールセンの哲学は、おそらく1907年に作曲家のクヌーズ・ハーダ宛の書簡に書かれた助言に要約されている。「あなたには(中略)流麗さがあり、いまのところはとても素晴らしいものです。しかし、親愛なるハーダ氏、私はあなたに何度でも助言します。『調性、明晰さ、力強さ』です。」
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「エレクトロニック・ボディ・ミュージック」の記事における「音楽様式」の解説
ジャンル名からも想像できる通り、サンプラーやドラムマシンを中心とした電子楽器をメインに使用し、かつ肉体的でダンサブルな音楽というのが、主な方向性である。傾向としては、ダンサブルなビートが主流であるが、テクノ・ハウスムーブメントとは違い、派手で重厚な音質のドラムセットが主に使用された。 しかし一番の特徴は、しゃがれた声であまり抑揚のないメロディを歌う独特のボーカルスタイルである。 曲想的にはダークでヴァイオレントな雰囲気を醸し出している場合が多く見られた。脅迫的なビートのリフレイン、耳障りなメタルパーカッション系のノイズ、映画からサンプリングされた叫び声、ディストーション系のエフェクトをかけて歪ませたボーカルなど、あらゆる方向から暴力的な雰囲気を構築しようとする手段が取られた。 曲によってはダンサブルなものだけでなく、アンビエント系やゴシック系、音響系な曲も混在する場合もある。 注意すべき事実として、EBMというジャンル名はFront 242が自分たちの音楽スタイルを表現した言葉ではあるが、総体としてジャンルが示す音楽的な特徴はFront 242自身の音楽性と全て合致するものではない事が挙げられる。 Front 242の音楽は実験的な音響性と複雑なシーケンスが織りなすダンスミュージックであり、ビジュアルとしてアーミースタイルに傾倒している時期はあったが、それほどヴァイオレントな面はあまり際立っていなかったといえる。しかも彼らのボーカルスタイルはしゃがれ声をメインの特徴とはしていない。 むしろEBMのジャンルイメージを形成しているのはFront 242を母体としたものではなく、DAFに影響を受けたミニマルなビートが特徴のニッツァー・エブ(Nitzer Ebb)、ボーカルやサウンドが凶暴でホラーテイスト漂うスキニー・パピー(Skinny Puppy)、ヒップホップ系のMeat Beat Manifestoなど、このジャンルでくくられた様々なスタイルに及ぶエレクトロニックミュージックが担っているといえる。
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「ヴィルヘルム・ベルガー」の記事における「音楽様式」の解説
ベルリンのアカデミーを卒業した作曲家の多くと同じく、ヴィルヘルム・ベルガーも作曲理論に関して卓越した知識を磨き上げていた。ベルガーの作品は、様式的に見ると、不協和な和声法を随所に挿入したり、対位法的な組み立てを好んだりと、後のマックス・レーガーの作風を予見させる箇所も無くはないが、重厚なテクスチュアと緻密な展開、不均衡な楽節構造、陰翳に富んだ表現と抽象的な内容、明晰な形式感において、むしろヨハネス・ブラームスの作品によく似ている(ちなみにレーガーは、マイニンゲンにおいてベルガーの後任楽長であった)。 ベルガーは長寿でこそなかったが、多作家であり、楽曲の数は、作品番号にして優に100を超えている。《ピアノ五重奏曲》や《交響曲 第2番》は佳作と看做されている。ベルガーの没後も暫くその作品は、ヴィルヘルム・アルトマンのような保守的な音楽愛好家によって高く評価された(アルトマンは著書『弦楽四重奏の演奏者のための手引き(Handbuchs für Streichquartettspieler)第3巻』(1929年)において、ベルガーにきわめて好意的な評価を寄せた音楽評論家である)。
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「アレクサンダー・アグリコラ」の記事における「音楽様式」の解説
アグリコラの様式は、(特に活動初期には)ヨハネス・オケゲムに近く、年を経るとともに、次第にジョスカンの通模倣的な作曲技法を取り入れるようになった。作曲時期が確かである作品はわずかだが、多くの作品では通模倣的でなく、複雑で、リズム変化の多彩なオケゲム的対位法の技法を用いている。ただし、オケゲムとは異なり、アグリコラは繰り返しや、ゼクェンツを用いることに積極的で、1500年ころに通模倣様式が広く流行する頃には、この技法を多く取り入れるようになった。 アグリコラの作品には、ミサ曲、モテット、さまざまなスタイルの世俗音楽(ロンドー、ベルグレット、シャンソン)や器楽音楽が残されている。器楽作品の多くはジル・バンショワやオケゲムの世俗音楽に基づいている。多くの作品が15世紀後半に人気を博していた。 アグリコラは、ブルゴーニュ楽派と、ジョスカン世代のフランドル楽派の両方の様式で作曲しており、この2つの様式の間をつなぐ貴重な存在の一人である。
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「アスガー・ハンメリク」の記事における「音楽様式」の解説
今日では比較的無名の存在になっているが、生前は優に四半世紀にわたって、ボルチモア・ピーボディ音楽院の院長として、アメリカ合衆国において影響力ある教師となり、作品は欧米の両大陸で上演された。ハンメリクの作品で最も顕著な影響はベルリオーズである。とりわけ意識的に選択したのは、フランス音楽の影響に密着するという姿勢であり、交響曲におけるフランス語の題名の採用や、「固定観念」の技法にそれを見ることができる。 ハンメリク作品は、「北欧的な」感じがするとしばしば評されており、作曲者自身も友人への手紙の中で、たとえ自分は渡米するにせよ何時でもデンマーク人のままでいるつもりだと述べている。後期作品は、セザール・フランクやポール・デュカスらの作曲家の影響も組み込んでおり、より頻繁な転調や、変位和音の多用、発展的調性や部分的複調も採り入れている。最後の交響曲は、同時期のマーラーの作品にも匹敵する作品である。
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「ロード (メタリカのアルバム)」の記事における「音楽様式」の解説
商業的な成功を得た前作『ブラック・アルバム』から約5年を経てリリースされた本作は、バンドのルーツであるスラッシュメタルとは異なる、むしろ伝統的なハードロック、ロックンロール、ブルーズに近い特徴や集合的なサウンドを含むものであることを表していた。前作リリース時点で、最終的にアルバムに収録されることになる14曲が作曲の軸であるジェイムズ・ヘットフィールドとラーズ・ウルリッヒの手により、ラーズのスタジオ”The Dungeon”にてデモ作成まで始まっていた。バンドは1995年春、約1年作業することになるレコード・プラント・スタジオ (The Plant Studio) で30ものデモを作成し、ブラック・アルバムのレコーディングにも参加したボブ・ロックと再びチームを組むことになった。 1980年代のバンドサウンドを特徴づけるスラッシュメタルの様式はほとんどなくなり、リズムギターの刻みリフの録音においてもジェイムズだけでなくカーク・ハメットがよりブルージーな音とプレイで参加している。加えて、ラーズはこれまでのアルバムに見られた速く複雑なツーバスを廃し、よりシンプルなテクニックとスタイルで最小限のアプローチに留めた。その上、ジェイムズの作詞にも変化が見られ、多くの人が最も個人的であり内観的だと感じるような詞を書いた。アルバムの代表曲である"Until It Sleep"は彼の母の癌闘病の末迎えた死を取り扱っており、"Mama Said"もまた母との関係をテーマとしている。これら全ては『メタル・ジャスティス』や『メタル・マスター』に見られる政治的、社会的なニュアンスからの出発を示していた。 今作は78分59秒と、メタリカのスタジオ・アルバムで収録時間が最も長い作品となった。初版には単に「78:59」とだけ書かれたその長い収録時間を豪語するステッカーが添付されていた。結果として、"The Outlaw Torn"がアルバムに合わせて約1分短縮しなければならなくなり、フルバージョンはシングル"The Memory Remains"に"The Outlaw Torn (Unencumbered by Manufacturing Restrictions Version)"として10分48秒で収録されている。シングルのバックカバーには次のように説明がなされている。「『ロード』の最終作業をしていた時、レコード会社が俺たちに『78分59秒より1秒として長くできないし、そうでなければ根本的に曲を飛ばさない限りCDが鳴ることはないだろう』と言った。14曲でだいたい30秒ほど超過していて何らかの対処がなされなければならなかったから、"Outlaw"のイカした最後のジャムをカットしたんだ。」 また、全曲半音下げチューニングとなっている最初のアルバムである。また、オーストラリア盤には他では見られないボーナスインタビューCDが付属している。
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「ジョヴァンニ・フランチェスコ・アネーリオ」の記事における「音楽様式」の解説
ジョヴァンニ・アネーリオは、兄フェリーチェより進歩的な作曲家であり、17世紀初頭のローマの保守的な環境にあってなお進歩主義をとり続けた。マドリガーレは、フィレンツェからモノディ様式を借用している。その反面、ミサ曲やモテットといった宗教曲は、数字つきバスをとり入れ、ロドヴィコ・ヴィアダーナの影響を示しているものの、保守的なパレストリーナ様式を利用している。ミサ曲のいくつかは、16世紀末に流布したヴェネツィア楽派の複合唱様式が採られている。 ジョヴァンニ・アネーリオの最も重要な業績は、1619年の《霊的な劇音楽 Teatro armonico spirituale》であり、これは実質的に最初のオラトリオであると論じられている。ローマ楽派によるものとしては、器楽の最初のオブリガート・パートが含まれている。楽器法は注意深く表記されており、器楽と声楽のパッセージの交替は、続く世代に多大な影響を与えた。ヴェネツィア楽派のマドリガーレ・スピリトゥアーレと違って《霊的な劇音楽》のテクストは世俗語(イタリア語)であるが、音楽的な実態は、ほとんどが壮大なモテットである。音楽によって寓話が示されるものの、オペラと違って演技は伴わない。声楽と器楽は楽章ごとに交替する。『放蕩息子』や『サウルの回心』に曲付けされている。
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