ラベル【Maurice Joseph Ravel】
ラヴェル
ドビュッシーと並び近代フランスを代表する作曲家。スペイン国境近くのバスク地方シブールに生まれる。母親はバスク人。パリ音楽院では(1889-1901)、ベリオにピアノを、ジェダルジュに対位法を、フォーレに作曲を学ぶ。 ローマ賞は二等が最高で、大賞を目指して受験を続けるものの、1905年には受験資格なしと判断される。この結果への抗議が殺到し、当時のパリ音楽院院長デュボワは、辞任に追い込まれる事態となった。1910年にはケクラン、カプレ、ロジェ・デュカスらと独立音楽協会(SMI)を立ち上げた。彼らは皆、ドビュッシーの音楽を尊敬し、その影響を受けた前衛たちだった。一方でラヴェルの音楽は、古いものにただ反抗するという性質のものではなく、古典やロマン派の音楽からも多くを学び、取り入れている。
ラヴェル
モーリス・ラヴェル
ラヴェル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 00:59 UTC 版)
ラヴェルは「管弦楽の魔術師」という異名をとるほどの管弦楽法の大家であった。ラヴェルの管弦楽法は繊細・合理的であり、模範的な管弦楽法とされている[要出典]。 ラヴェルは、『ボレロ』においては音色の組み合わせを徹底的に追求し、管弦楽から全く新しい音色を得ることに成功している。編曲にも秀で、自作のピアノ曲を管弦楽曲に編曲したほか、ムソルグスキーのピアノ組曲『展覧会の絵』を管弦楽曲に編曲したものもラヴェルの実力が遺憾なく発揮されている。
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ラヴェル
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「ダフニスとクロエ (ラヴェル)」の記事における「ラヴェル」の解説
ラヴェルは、『ダフニス』初演後の1913年には、第3場の音楽をほぼそのまま抜き出し『ダフニスとクロエ』第2組曲(夜明け-無言劇-全員の踊り)として出版した。この「第2組曲」は、オーケストラにとって重要なレパートリーの一つとなり今日に至っている。 ラヴェルはその後、『ラ・ヴァルス』(1920年)、『ボレロ』(1928年)などの作品を発表していくが、一度発表した作品にはさほど愛着を示さず、周囲の人間が『ダフニス』への賛辞を送ってもそっけない素振りしか示さなかったという。 しかし、晩年のラヴェルは原因不明の脳の疾患により、意識は明晰であるにもかかわらず文章を書いたり音楽を楽譜に記したりすることが全くできない「精神的幽閉」とでも言うべき状態におかれ、『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』(1933年)を最後に作曲が全くできなくなった。そして1937年12月に脳の外科手術を受けたラヴェルはそのまま帰らぬ人となった。死の数ヶ月前、 アンゲルブレシュト指揮フランス国立放送管弦楽団の演奏会で『ダフニス』を聴いたときのラヴェルの様子を、同行していたヴァイオリニストのエレーヌ・ジュルダン=モランジュは次のように回想している。 晩年病に倒れて仕事の不振に打ちのめされていたとき、かれは好んで初期の作品をくり返し聞いた。かれが最後に《ダフニス》を聞いたとき(アンゲルブレック指揮の国立管弦楽団による)、かれはひどく感動し、さっとホールを出て私を自動車のところへ引っぱっていき、そして静かに泣いた。「あれはやっぱりいい曲だった!ぼくの頭のなかにはまだいっぱい音楽があったのに!」私はなんとかしてかれを慰めたかったので、かれの音楽はすばらしい、完璧だ、と言ったのだが、かれは憤然として答えた。「とんでもない、とんでもないよ。ぼくは言いたいことをまだなにも云ってないんだ・・・・・・」 — エレーヌ・ジョルダン=モランジュ、エレーヌ・ジョルダン=モランジュ 安川加寿子、嘉乃海隆子共訳『ラヴェルと私たち』、音楽之友社、1968年8月、56-57頁より引用
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